同期の姫は、あなどれない
 「とりあえず、移動させないとな」

 一晩中この状態で寝かせておくわけにもいかない。
 起こしてしまわないようにそっと抱き上げると、ちゃんと食べているのかと思うほど軽かった。

 大して広くない部屋では、ほんの数歩でベッドまで辿り着く。
 下ろすときに一瞬身じろぎをしたので動きを止めるが、すぐに規則正しい寝息に変わってほっとする。

 最近の顔色の悪さが気になっていた。
 S製薬の件も本格的に動き出して忙しいせいかと思っていたけれど。

 (……傷心中、か)

 いつだったか会社のカフェテリアで偶然聞こえた、早瀬とその後輩の会話。彼氏の対応が酷いとか、もっと言いたいこと言わないと、みたいな内容だったと思う。
 直後にあの後輩に呼び止められて、立ち聞きしていたことに気づかれたかとヒヤリとしたからよく覚えていた。

 俺にしとけば?という言葉が、喉まで出かけるのを飲み込む。

 傷心というのは、文字通り傷ついているということ。
 あの後どういったいきさつがあったのかは分からないが、早瀬はまだ相手に気持ちを残しているのだろう。だから、傷つく。自分の駆け引きめいた思わせぶりな言動など入り込む余地がないほどに。

 そっと、早瀬の顔にかかった髪をはらうように梳くと、少し色素の薄い柔らかな髪がハラハラと指をすり抜ける。
 ほとんど無意識に手を伸ばした頬は、アルコールのせいで少し赤く染まっていて、すべらかで柔らかかった。

 何気なく時計を見ると、日付をまたいでからだいぶ時間が過ぎている。
 俺はクローゼットから薄手のブランケットを2枚取り出して、1枚を早瀬の体に掛けた。

 頭が正確な時間を認識すると、途端に眠気が襲ってきてあくびが出た。自分もそろそろ寝ようと立ち上がったとき――ー


 「………ひ、め」


 時が止まるということが現実に起こりうるとしたら、きっと今だった。
 不意打ちに名前を呼ばれるだけで、こんなにも揺さぶられる。

 息を詰めて、早瀬の寝顔を見つめる。

 閉じたままのまぶたと寝息で、寝言だと分かると一気に脱力した。一つ分かったことがある。寝ているときの早瀬は、心臓に悪い。


 「……おやすみ」


 それだけを言うと、俺は自分のブランケットを持ち直して、狭いソファーに体を沈めた。


 
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