スパダリ起業家外科医との契約婚
第二十六章 答え
第二十六章 答え
伊庭秀一は真っ先に血相を変えた。
「壮一郎……こんなに早く、あの手術が終わるわけがないだろう? どうしてここに……」
彼の言葉に、周囲のスタッフたちもどよめき始める。先ほどまで「壮一郎は来ないかもしれない」と話していたからこそ、まさかこのタイミングで登場するとは誰も想定していなかったのだ。
壮一郎は整った眉をわずかに動かして、伊庭の方へゆっくり顔を向ける。しかし、その瞳からは微塵の焦りも感じられない。漆黒のスーツが彼の広い肩にぴたりと収まり、頑なな威厳を放っている。
しかし、先に答えたのは英盛だった。彼は大きく深呼吸してから、まるで誇りをかみしめるように宣言する。
「こいつは本当の天才なんだよ。普通の外科医なら長時間かかる手術でも、壮一郎なら仕上げてしまう。なあ、壮一郎? むしろ、遅かったじゃないか?」
その声には、伊庭への軽蔑も見え隠れする。
それを聞いた壮一郎は英盛にむかって微笑んだあと、また冷静な表情に戻り、しんと静まった空気の中で視線を桜に戻した。
「――桜。いま涼子が言っていた“決断”という言葉、それはどういう意味だ? なぜ桜が知っている?」
柔らかい声のなかに潜む強い意志。桜は青のジャケットを翻すようにして立ち上がり、その黒い瞳を正面から受け止める。
「壮一郎さん、あなたと英盛さんのためよ。涼子さんは、自分が去ればあなた方が潤滑に事業を進められると思っている。私と伊庭さんの連携を前提に、もっと大きな投資を受けられるのに邪魔が入らないように……ね」
あまりにも傲慢な物言いに、涼子は悔しさを募らせながらもうつむくしかなかった。
桜はそんな涼子を横目に、まるで“彼女は賢明な選択をしようとしている”とでも言わんばかりの態度をとる。
壮一郎は一歩前に進み、その隙のないスーツ姿からは威圧感がにじんでいる。
だが彼が次に見せたのは、ふっと力を緩めるような優しい表情。まるで「大丈夫だ」と言いたいように、涼子を見据えながら手を伸ばした。
「涼子……お前は、なぜそんなことを考えた?」
心の奥底まで覗きこむような、落ち着いた声に、涼子は答えられないまま唇を噛む。桜や伊庭の脅迫や、英盛たちの夢を壊したくないという思いが頭を渦巻き、口から言葉にならない。
壮一郎は涼子が持ちかけていた離婚届に目を落とし、自然な動きでその紙を取り上げる。
まるで精巧なマジックを見るように、涼子は紙がひったくられたわけでもなく、あっという間に彼の手元へ移ったことに気づく——それほど洗練された動作だった。
そして、彼はそっと息を整えて、涼子を包むような眼差しを向ける。まるで周囲の声をシャットアウトするかのように、彼女だけに語りかけた。
「……涼子がどんなに俺たちのためを思ってくれても、そこに“離婚”があるなんてあり得ない。お前の存在を、そんなふうに切り捨てることはできないんだ」
その声には、高柳壮一郎たる意志の堅さと、愛情ゆえの柔らかさが同居していた。涼子の瞳からこぼれ落ちそうになる涙を、彼は気づかぬふりをしながら、そっと離婚届を胸に抱える。
涼子と壮一郎の小さなやりとりを見た桜が、焦燥感を帯びた声で口を開く。
「でも、壮一郎さん。あなたが父の病院を放り出してアメリカへ渡るのなら、少しでも多くの資金を得たほうがいいわ。そうすれば英盛さんの企業も世界的に飛躍できる。病院は伊庭さんがちゃんと経営して、私たちクラモトホールディングスがバックアップする……。これがいちばん合理的よ」
壮一郎は振り返り、英盛の方へ視線を送る。
「英盛……悪いが、桜が出してきた契約条件がどうだったか教えてくれないか。」
英盛はパラパラと資料を確認しながら、ざっくりとした経緯を壮一郎に伝える。
「クラモトホールディングスは確かに莫大な投資をしてくれる。見返りに、海外展開の主導権を握りたいと言ってきた。伊庭さんとも結託して、病院を自在に動かそうという狙いがあるのは明らかだ。桜さんはさらに、涼子が“離婚”してお前を解放しろ、なんて言い出した。——要するに“お前をもらう代わりに金を出す”って寸法だよ」
英盛が苦々しい口調でまとめ、桜は「言い方が乱暴ね」とわざとらしい笑みで応じる。
しかし壮一郎は一度も桜に顔を向けず、英盛の話を黙って聞き、最後に「わかった」と短く答えて、英盛に目配せをした。
英盛はそれを受けてテーブル上に並んでいた契約書をバサリと閉じ、桜のほうも向き直って言った。
「桜さん。残念だけど、今回の話、俺たちは“契約しない”ことに決めたよ。」
シンプルな言葉ながら、英盛の言葉には確かな決意が感じられる。
桜は驚いて目を見開き、伊庭は「何を言っているんだ」と顔をしかめる。
「どうして? あなたたちには大きな資金が必要でしょう? このままでは海外展開に時間がかかるはず。私たちが援助すれば、一気に道が開けるのに」
英盛は一瞥してから肩をすくめ、壮一郎へと視線をやった。
すると壮一郎は軽く頷き、まるで示し合わせたように再び英盛が言葉を継ぐ。
「俺と壮一郎は、アメリカのオライオン・ラボラトリーズと組むことにした」
壮一郎が続けて口を開く。
「英盛が、俺たちにとってもっと理想的なパートナーを見つけてくれた。クラモトホールディングスの力がなくても、アメリカでの展開に目処が立ったんだ——そうだろう?」
英盛が頷き、ポケットから一枚の紙を取り出してみせる。それにはオライオン・ラボラトリーズのロゴが鮮明に印刷されている。オライオン・ラボラトリーズは、世界No.1の医療機器メーカーであり、先進的なAI研究でも有名な企業だ。
「俺のアメリカ出張は、これをまとめるためでもあった。桜さん、あんたには悪いが、もう要らないんだ。俺たちはオライオンと協力して世界を変えに行く。」
その言葉に、桜は表情を歪める。涼子が思わず息を呑むほどの衝撃が会議室を走る。周囲のスタッフからも動揺した声が上がった。
しかし、壮一郎は少しも揺らがない。ネクタイとスーツの合わせが完璧に整った姿で、むしろ桜へ視線を据える。
「桜。英盛がまとめてきてくれた契約は、俺たちが望む医療の未来を叶える可能性を秘めている。だから、そちらと組むことにした……そして、もう一つ。俺たちは、“家族を犠牲にしろ”などと迫るような企業とは組むつもりもない」
見下ろすような瞳は凛として濁りがない。
桜は唇を震わせて言葉を失った。伊庭も黙っているが、次第に歯ぎしりをするような仕草が目立つ。空気がしんと静まる中、英盛がうなずきながら肩をすくめる。
「桜さん、そういうことだ。契約はしない。悪いが俺たちを利用したいなら別の手を探すんだな……ああ、もう一つ、用事があったよな、壮一郎」
英盛の合図を受けて、壮一郎がスーツのポケットから分厚い封筒を取り出し、伊庭の前に置いた。
壮一郎に無言で促され、その中身を見た途端、伊庭の顔がさらに青ざめる。
「秀一。お前が隠していた不正がすべてここに書かれている。……薬剤や医療機器の不透明な入札、キックバックの受領、さらには……まあ、いろいろと出てきたよ」
壮一郎の淡々とした口調にこそ、絶対的な自信が感じられる。
伊庭は書類をすべて見る前から、その中身が自分を失脚へ導く決定打となるのを悟ったのか、唇を引き結んで視線を泳がせる。
「な、何を企んでいる。まさか、お前ら……」
声が上ずり、動揺が隠せない。そのとき初めて、壮一郎の眼差しに冷たい刃が生まれる。
「企んでいる? 違うな。これは“事実”だ。お前が長年にわたって病院を利権に利用し、患者ではなく金のために動いていた証拠だ。ここに揃っている以上、もう弁解はできない」
伊庭は「くっ……」と呻き、椅子の背にもたれかかるようにしてうなだれる。桜もそれに気づき、半歩退くようにテーブルから身を引く。涼子の胸はざわめくが、壮一郎は落ち着いたままだ。
「これで“お前が病院の代表になる”なんて話は破綻した。……父の容体が回復すれば、さらに追及が進むだろう。お前にはもう退く道すらない。あとは時間の問題だ」
全身から力が抜けたように、伊庭は頭を抱え、悔しそうに歯噛みする。だが、状況を逆転する術はない。経営陣に取り入って病院を乗っ取るという野望も、すべて水泡に帰す。それをまざまざと示されたこの瞬間、彼は屈辱のあまり声も出ない。
桜と伊庭が黙り込むなか、壮一郎は息を整え、静かに言葉を紡いだ。
「俺や英盛は、医療を本質的に向上させたいと思っている。AIを使ったシステム開発も、海外の最先端技術を学ぶのも、すべてはより多くの患者を救うためだ。病院経営も、手術の技術も、根本には“人を助ける”という信念がある。……家族や仲間を犠牲にするつもりはないし、金のために不正を黙認するつもりもない」
理路整然とした声が会議室を包み込む。
英盛は隣で頷き、物静かに桜と伊庭を見やる。スタッフたちも息をのんでいて、まるで彼の演説を聞いているかのように静まり返っている。
桜は何も言えず、伊庭はうなだれ、それぞれの野望は綻びを余すところなく晒していた。
そして、壮一郎は人々の視線を背中に受けながら、一つ深呼吸をし、まるで最初から決まっていた動作のように、離婚届を軽く広げ、静かに見つめてからビリリッ……と真っ二つに破いた。
その破れる音が、妙に大きく響く。
自分がサインして捺印までした紙が、壮一郎の手の中で二度と戻らない形に壊されていく――涼子はそれを見つめながら、今まで心を占めていた不安や悲しみが消えさっていくのを感じていた。
そして、どこまでも静かで、それでいて凛々しい声で、壮一郎は涼子に語りかける。
「……こんなもの必要ない。……涼子、お前は何があっても俺のそばにいろ。離れさせるわけがない」
涼子の胸にどっと涙がこみ上げてきそうになる。周囲に人がいることも忘れて、彼女は唇を震わせながら目を伏せた。
壮一郎は破り捨てた離婚届の残骸を小さくまとめ、テーブルの端に置いてから、ためらいなく涼子を抱き寄せる。
ゆっくりと、しかし力強い腕が彼女の背中を回し、その華奢な身体を守るように包みこんだ。
「もう大丈夫だ……何も心配いらない」
耳元で優しく響く言葉と、差し出してくれた救いの手に、彼女は身を委ねるだけでいい。
これまで一人で悩み、桜や伊庭の脅しに耐え、家族を守ろうとした苦しみが、まるで雪どけのように溶けていく気がした。
涼子は押さえきれずに、壮一郎の腕の中で小さく涙をこぼした。
伊庭秀一は真っ先に血相を変えた。
「壮一郎……こんなに早く、あの手術が終わるわけがないだろう? どうしてここに……」
彼の言葉に、周囲のスタッフたちもどよめき始める。先ほどまで「壮一郎は来ないかもしれない」と話していたからこそ、まさかこのタイミングで登場するとは誰も想定していなかったのだ。
壮一郎は整った眉をわずかに動かして、伊庭の方へゆっくり顔を向ける。しかし、その瞳からは微塵の焦りも感じられない。漆黒のスーツが彼の広い肩にぴたりと収まり、頑なな威厳を放っている。
しかし、先に答えたのは英盛だった。彼は大きく深呼吸してから、まるで誇りをかみしめるように宣言する。
「こいつは本当の天才なんだよ。普通の外科医なら長時間かかる手術でも、壮一郎なら仕上げてしまう。なあ、壮一郎? むしろ、遅かったじゃないか?」
その声には、伊庭への軽蔑も見え隠れする。
それを聞いた壮一郎は英盛にむかって微笑んだあと、また冷静な表情に戻り、しんと静まった空気の中で視線を桜に戻した。
「――桜。いま涼子が言っていた“決断”という言葉、それはどういう意味だ? なぜ桜が知っている?」
柔らかい声のなかに潜む強い意志。桜は青のジャケットを翻すようにして立ち上がり、その黒い瞳を正面から受け止める。
「壮一郎さん、あなたと英盛さんのためよ。涼子さんは、自分が去ればあなた方が潤滑に事業を進められると思っている。私と伊庭さんの連携を前提に、もっと大きな投資を受けられるのに邪魔が入らないように……ね」
あまりにも傲慢な物言いに、涼子は悔しさを募らせながらもうつむくしかなかった。
桜はそんな涼子を横目に、まるで“彼女は賢明な選択をしようとしている”とでも言わんばかりの態度をとる。
壮一郎は一歩前に進み、その隙のないスーツ姿からは威圧感がにじんでいる。
だが彼が次に見せたのは、ふっと力を緩めるような優しい表情。まるで「大丈夫だ」と言いたいように、涼子を見据えながら手を伸ばした。
「涼子……お前は、なぜそんなことを考えた?」
心の奥底まで覗きこむような、落ち着いた声に、涼子は答えられないまま唇を噛む。桜や伊庭の脅迫や、英盛たちの夢を壊したくないという思いが頭を渦巻き、口から言葉にならない。
壮一郎は涼子が持ちかけていた離婚届に目を落とし、自然な動きでその紙を取り上げる。
まるで精巧なマジックを見るように、涼子は紙がひったくられたわけでもなく、あっという間に彼の手元へ移ったことに気づく——それほど洗練された動作だった。
そして、彼はそっと息を整えて、涼子を包むような眼差しを向ける。まるで周囲の声をシャットアウトするかのように、彼女だけに語りかけた。
「……涼子がどんなに俺たちのためを思ってくれても、そこに“離婚”があるなんてあり得ない。お前の存在を、そんなふうに切り捨てることはできないんだ」
その声には、高柳壮一郎たる意志の堅さと、愛情ゆえの柔らかさが同居していた。涼子の瞳からこぼれ落ちそうになる涙を、彼は気づかぬふりをしながら、そっと離婚届を胸に抱える。
涼子と壮一郎の小さなやりとりを見た桜が、焦燥感を帯びた声で口を開く。
「でも、壮一郎さん。あなたが父の病院を放り出してアメリカへ渡るのなら、少しでも多くの資金を得たほうがいいわ。そうすれば英盛さんの企業も世界的に飛躍できる。病院は伊庭さんがちゃんと経営して、私たちクラモトホールディングスがバックアップする……。これがいちばん合理的よ」
壮一郎は振り返り、英盛の方へ視線を送る。
「英盛……悪いが、桜が出してきた契約条件がどうだったか教えてくれないか。」
英盛はパラパラと資料を確認しながら、ざっくりとした経緯を壮一郎に伝える。
「クラモトホールディングスは確かに莫大な投資をしてくれる。見返りに、海外展開の主導権を握りたいと言ってきた。伊庭さんとも結託して、病院を自在に動かそうという狙いがあるのは明らかだ。桜さんはさらに、涼子が“離婚”してお前を解放しろ、なんて言い出した。——要するに“お前をもらう代わりに金を出す”って寸法だよ」
英盛が苦々しい口調でまとめ、桜は「言い方が乱暴ね」とわざとらしい笑みで応じる。
しかし壮一郎は一度も桜に顔を向けず、英盛の話を黙って聞き、最後に「わかった」と短く答えて、英盛に目配せをした。
英盛はそれを受けてテーブル上に並んでいた契約書をバサリと閉じ、桜のほうも向き直って言った。
「桜さん。残念だけど、今回の話、俺たちは“契約しない”ことに決めたよ。」
シンプルな言葉ながら、英盛の言葉には確かな決意が感じられる。
桜は驚いて目を見開き、伊庭は「何を言っているんだ」と顔をしかめる。
「どうして? あなたたちには大きな資金が必要でしょう? このままでは海外展開に時間がかかるはず。私たちが援助すれば、一気に道が開けるのに」
英盛は一瞥してから肩をすくめ、壮一郎へと視線をやった。
すると壮一郎は軽く頷き、まるで示し合わせたように再び英盛が言葉を継ぐ。
「俺と壮一郎は、アメリカのオライオン・ラボラトリーズと組むことにした」
壮一郎が続けて口を開く。
「英盛が、俺たちにとってもっと理想的なパートナーを見つけてくれた。クラモトホールディングスの力がなくても、アメリカでの展開に目処が立ったんだ——そうだろう?」
英盛が頷き、ポケットから一枚の紙を取り出してみせる。それにはオライオン・ラボラトリーズのロゴが鮮明に印刷されている。オライオン・ラボラトリーズは、世界No.1の医療機器メーカーであり、先進的なAI研究でも有名な企業だ。
「俺のアメリカ出張は、これをまとめるためでもあった。桜さん、あんたには悪いが、もう要らないんだ。俺たちはオライオンと協力して世界を変えに行く。」
その言葉に、桜は表情を歪める。涼子が思わず息を呑むほどの衝撃が会議室を走る。周囲のスタッフからも動揺した声が上がった。
しかし、壮一郎は少しも揺らがない。ネクタイとスーツの合わせが完璧に整った姿で、むしろ桜へ視線を据える。
「桜。英盛がまとめてきてくれた契約は、俺たちが望む医療の未来を叶える可能性を秘めている。だから、そちらと組むことにした……そして、もう一つ。俺たちは、“家族を犠牲にしろ”などと迫るような企業とは組むつもりもない」
見下ろすような瞳は凛として濁りがない。
桜は唇を震わせて言葉を失った。伊庭も黙っているが、次第に歯ぎしりをするような仕草が目立つ。空気がしんと静まる中、英盛がうなずきながら肩をすくめる。
「桜さん、そういうことだ。契約はしない。悪いが俺たちを利用したいなら別の手を探すんだな……ああ、もう一つ、用事があったよな、壮一郎」
英盛の合図を受けて、壮一郎がスーツのポケットから分厚い封筒を取り出し、伊庭の前に置いた。
壮一郎に無言で促され、その中身を見た途端、伊庭の顔がさらに青ざめる。
「秀一。お前が隠していた不正がすべてここに書かれている。……薬剤や医療機器の不透明な入札、キックバックの受領、さらには……まあ、いろいろと出てきたよ」
壮一郎の淡々とした口調にこそ、絶対的な自信が感じられる。
伊庭は書類をすべて見る前から、その中身が自分を失脚へ導く決定打となるのを悟ったのか、唇を引き結んで視線を泳がせる。
「な、何を企んでいる。まさか、お前ら……」
声が上ずり、動揺が隠せない。そのとき初めて、壮一郎の眼差しに冷たい刃が生まれる。
「企んでいる? 違うな。これは“事実”だ。お前が長年にわたって病院を利権に利用し、患者ではなく金のために動いていた証拠だ。ここに揃っている以上、もう弁解はできない」
伊庭は「くっ……」と呻き、椅子の背にもたれかかるようにしてうなだれる。桜もそれに気づき、半歩退くようにテーブルから身を引く。涼子の胸はざわめくが、壮一郎は落ち着いたままだ。
「これで“お前が病院の代表になる”なんて話は破綻した。……父の容体が回復すれば、さらに追及が進むだろう。お前にはもう退く道すらない。あとは時間の問題だ」
全身から力が抜けたように、伊庭は頭を抱え、悔しそうに歯噛みする。だが、状況を逆転する術はない。経営陣に取り入って病院を乗っ取るという野望も、すべて水泡に帰す。それをまざまざと示されたこの瞬間、彼は屈辱のあまり声も出ない。
桜と伊庭が黙り込むなか、壮一郎は息を整え、静かに言葉を紡いだ。
「俺や英盛は、医療を本質的に向上させたいと思っている。AIを使ったシステム開発も、海外の最先端技術を学ぶのも、すべてはより多くの患者を救うためだ。病院経営も、手術の技術も、根本には“人を助ける”という信念がある。……家族や仲間を犠牲にするつもりはないし、金のために不正を黙認するつもりもない」
理路整然とした声が会議室を包み込む。
英盛は隣で頷き、物静かに桜と伊庭を見やる。スタッフたちも息をのんでいて、まるで彼の演説を聞いているかのように静まり返っている。
桜は何も言えず、伊庭はうなだれ、それぞれの野望は綻びを余すところなく晒していた。
そして、壮一郎は人々の視線を背中に受けながら、一つ深呼吸をし、まるで最初から決まっていた動作のように、離婚届を軽く広げ、静かに見つめてからビリリッ……と真っ二つに破いた。
その破れる音が、妙に大きく響く。
自分がサインして捺印までした紙が、壮一郎の手の中で二度と戻らない形に壊されていく――涼子はそれを見つめながら、今まで心を占めていた不安や悲しみが消えさっていくのを感じていた。
そして、どこまでも静かで、それでいて凛々しい声で、壮一郎は涼子に語りかける。
「……こんなもの必要ない。……涼子、お前は何があっても俺のそばにいろ。離れさせるわけがない」
涼子の胸にどっと涙がこみ上げてきそうになる。周囲に人がいることも忘れて、彼女は唇を震わせながら目を伏せた。
壮一郎は破り捨てた離婚届の残骸を小さくまとめ、テーブルの端に置いてから、ためらいなく涼子を抱き寄せる。
ゆっくりと、しかし力強い腕が彼女の背中を回し、その華奢な身体を守るように包みこんだ。
「もう大丈夫だ……何も心配いらない」
耳元で優しく響く言葉と、差し出してくれた救いの手に、彼女は身を委ねるだけでいい。
これまで一人で悩み、桜や伊庭の脅しに耐え、家族を守ろうとした苦しみが、まるで雪どけのように溶けていく気がした。
涼子は押さえきれずに、壮一郎の腕の中で小さく涙をこぼした。