スパダリ起業家外科医との契約婚

第五章 提案

第五章 提案

次に目を覚ましたとき、部屋は薄暗かった。
時計を見ると夜の10時を回っている。結婚式から始まった長い一日も、そろそろ二次会が終わる頃合いかもしれない。起き上がろうとすると、身体がだるくて力が入らない。まだシャワーを浴びた疲れが残っているようだった。

ベッドサイドには小さなスタンドライトが灯り、テーブルの上にはミネラルウォーターと書き置きが残されている。そこには壮一郎の几帳面な字でこう書かれていた。

病院に行くことになった。二次会が終わったら一応連絡をしてくれ。
ゆっくり休め。朝まで眠っても構わない。
高柳壮一郎

なんともそっけないが、必要十分な伝言だ。彼が病院に呼び出されたということは、患者の緊急オペか何かだろう。さすが天才外科医と呼ばれるだけあって、常に多忙な日々を送っているに違いない。

涼子はそのまま水を飲み、疲れが少しだけ和らいだところでスマホを確認した。兄からメッセージが入っている。

(二次会、もうお開き! 三次会でカラオケ行く組がいるけど、お前は疲れてるだろうから無理すんなよ。
壮一郎の部屋にいるなら、そのまま泊まれ。変な意味じゃなくて、ホテル代はどうせアイツが負担してる。俺は妻と一緒に実家へ戻るから。
じゃあな、今度また連絡する!)

どうやら兄は、涼子がこの部屋に泊まるのを大して気にしていないようだ。一瞬、こんな非常識な状況でいいのだろうかと戸惑うが、兄の無頓着さにも助けられる。
壮一郎に二次会が終わった連絡を送り、そのままベッドに横になっていると、いつの間にか再び眠りに落ちた。日付が変わるころにふと目覚めて、シャワーだけは軽く浴び直し、再度眠った。


翌朝、カーテン越しに差し込む淡い光で目が覚めた。
時刻は朝の七時過ぎ。結局、壮一郎は戻ってきていないようだ。テーブルの上のスマホをチェックすると、兄から深夜に一件だけメッセージがあったが、壮一郎からは特に何もなし。忙しくしているのだろう。

部屋をそのまま使わせてもらうのも悪いと考え、涼子はワイシャツを畳んで置き、手紙を書いた。

お借りしたワイシャツは洗ってお返ししたいのですが、お礼も言えないままでごめんなさい。ありがとうございました。
また改めてお詫びさせてください。
岩瀬涼子

そして結婚式用のドレスに再び袖を通し、部屋を出る。フロントでチェックアウトの確認をしたが、もちろん料金は支払い済みとのことだった。

(本当に、壮一郎には迷惑かけてばかりだ。今度きちんと謝らなきゃ……)

そう思いながら一人きりで帰路につく涼子。その道すがら、病院へ連絡して彼の様子を尋ねるようかとふと思ったが、さすがに憚られた。
携帯番号を交換したとはいえ、今はまだ連絡していいかどうか迷う。自分が単なる“友人の妹”の立場であることを思えば、病院へ押しかけるわけにもいかない。
結婚式のバタバタを言い訳にして先延ばしにするのは簡単だが、本当にこのままでは申し訳ない。

だが、その翌日の午後だった。兄から「壮一郎の都合が合うから、一緒に御礼に行こう」という連絡が入ったのだ。
二人で病院へ行くのかと思いきや、指定された場所は高柳家の別邸にあるオフィススペース。彼らが起業したベンチャー企業の事務所として使っているらしい。 

車で兄に拾ってもらい、指定された時間にその場所へ向かう。高柳家の“別邸”と言っても、そこは本邸の高柳総合病院から車で二十分ほど離れた静かな住宅街の一角にある。外観は瀟洒な洋館風で、周囲をきれいに手入れされた庭が囲んでいた。

「ここが俺と壮一郎のベンチャーの拠点なんだ。一階の一部をスタッフ用オフィスにしてる。今日はみんな出払ってるから、ゆっくり話せると思う」

英盛はそう言いながら、涼子をエントランスに案内する。ドアを開けると、広々とした吹き抜けがあり、明るい窓から庭の緑が見える。どこか病院の清潔感とも違い、カフェのような落ち着きがある空間だ。

「来たか」

応接スペースのソファに腰掛けていた壮一郎が、タブレットを閉じて顔を上げた。相変わらず黒い髪を綺麗に整え、シンプルな白シャツに黒のパンツというスタイル。それでも漂う圧倒的な存在感は隠せない。

「……お邪魔します。このあいだは、本当にいろいろすみませんでした」

 涼子は深々と頭を下げた。あのホテルの部屋で好意に甘えっぱなしだったのが申し訳なくてならない。だが、壮一郎は肩をすくめて「気にするな」と一蹴した。

「英盛の妹なんだ、あのぐらい大したことじゃない。むしろ体調は大丈夫か? 無理をしてないか?」

「はい、おかげさまで……」

 そのとき、英盛がソファにどっかりと腰を下ろし、会話を遮るように軽口を叩く。

「いやあ、よかったよかった。涼子もあれでだいぶ楽になったってさ。お前の部屋に泊まったことがいい薬になったらしいじゃないか?」

「ちょ、ちょっと兄さん!」

 恥ずかしさで顔が赤くなる涼子。壮一郎はチラリと涼子の表情を見たが、からかう様子もなく、ただ静かにうなずいた。

「医者として最低限の世話をしただけだ。礼を言われるほどのことじゃない」


 そうして謝罪とお礼のひと段落がついたところで、壮一郎は真剣な表情になり、英盛に向かって声を発した。

「英盛、すまないが少し席を外してくれないか。俺は涼子と話がある」

「……おいおい、なんだよ改まって。まさか告白でもすんのか?」

「いいから、二階のオフィスでメールチェックでもしてこい」

そのやりとりに、涼子は目を丸くする。
壮一郎がわざわざ二人きりで話したいことなど何だろう。少なくとも本人の口ぶりから察するに、ロマンチックな内容ではないような気がする。
英盛は「わかったよ」と言いつつも意味深な笑みを浮かべて席を立つと、階段を上がっていった。涼子は落ち着かない気分でソファに座り直し、姿勢を正す。

「……えっと、何か重要なお話でしょうか」

「簡単に言うと、俺の父——高柳彦造がうるさいんだ」

「お父様……高柳院長ですよね」

高柳総合病院の院長にして、壮一郎の父親。涼子も名前と顔くらいは知っているが、相手は地元では有名な人物だ。威厳とカリスマ性を兼ね備えた医師であり、病院経営者としても敏腕だと聞く。

「父の希望は、俺が早く身を固めて経営陣に入り、病院を継ぐことだ。外科医の仕事はもちろん認めてはいるが、もっと病院の舵取りをやれというのが、父の主張だ。だが、俺はまだそっちに専念するつもりはない。外科医としても、英盛との起業の方でも、やり残していることが多いからな」

「それは……大変ですね」

「だから父の要望を少しでもそらすために、俺は結婚だけでも先に済ませようと思う。ただし、それは——形式的な結婚だ」

涼子の頭が一瞬真っ白になる。——形式的な結婚?

「“偽装結婚”と言ってもいい。短くても一年間、籍を入れて夫婦の形を取り、父からの圧力をかわしたい。もっとも、それには協力者が必要だが……」

壮一郎は一瞬言葉を切り、じっと涼子の顔を見つめる。その瞳には、真剣さと緊張感が宿っている。

「涼子、君にその相手をやってほしい」

まっすぐな言葉に、涼子は息を呑んだ。全身の血が逆流するような衝撃。思わず立ち上がりそうになるのを必死にこらえる。

「え……私が……?」

「そうだ。英盛も了承済みだ。君は仕事を辞めて暇を持て余しているんだろう? 家にいても就職活動をする気になれないと言っていたらしいな」

あまりにも率直な言い方に、涼子は顔が熱くなる。たしかに事実だが、そうずばり言われると心が痛い。

「もちろんメリットもある。偽装結婚とはいえ、形だけは正規の結婚になるわけだから、生活費はこちらで面倒を見る。俺も忙しいから、君の暮らしを束縛するつもりはないし、外で働くならそれも構わない。……ただし、一つ条件がある」

「条件……?」

「一年間は、きちんと妻として振る舞ってほしい。俺の父や親族に対してもそうだし、周囲の人間が不自然に思わないように、夫婦らしい態度で過ごす。ただし、プライベートは互いに干渉しない。何か恋愛感情を持つ必要もないし、むしろ持たなくていい。契約としての結婚だ。どうだ?」

そのあまりにもドライな宣言に、涼子は言葉を失った。
心の奥から湧き上がる戸惑いと、かつての淡い想いが複雑に絡み合う。偽装とはいえ、憧れていた男性と結婚なんて——普通なら喜ぶべきなのだろうか。しかし、それは単に彼が父からの干渉を避けるための手段であり、そこに愛情など存在しない。
自分が一方的に恋心を抱いているだけなら、いずれ惨めな思いをすることが目に見えている。

「どうする? 引き受けるか?」

 壮一郎は涼子の返事を急かすように言う。その口調は少しだけ焦っているようにも感じられた。

「そんな……急に言われても……」

「悪いが俺も暇じゃない。すぐにでも父に“結婚相手が決まった”と報告したい。それに、英盛との仕事も出来るだけスピーディに進めたい。こういう業界はタイミングを逃すと事業成長にも影響が出るし、手術の予定も詰まっている。ぐずぐずしてる時間がないんだ」

涼子は頭を抱えた。まさかこんな展開になるなんて思ってもみなかった。
自分がただ謝りに来ただけのはずが、突然“一年間の結婚”を申し込まれるなんて——。しかし、兄がこれを容認しているというのも驚きだ。どこかで聞いたような“契約結婚”の展開が、現実に自分に降りかかってくるとは……。

 返答に詰まっていると、ちょうどいいタイミングで英盛が階段から降りてきた。

「どうだ涼子。お前、別に今すぐ再就職するあてもないんだろ? どうせだったら一年間、こいつの嫁になってみろよ。生活も安定するし、悪い話じゃないと思うぞ?」

 英盛は悪びれる様子もなく、あっけらかんと言い放つ。涼子が信じられないという顔をしていると、彼はさらに言葉を継いだ。

「お前、元彼に振られてうじうじしてるくらいなら、新しい場所で環境を変えてみろ。そもそも壮一郎は傷つけたりするような男じゃないし、条件面も悪くないだろ。実家の両親も喜ぶんじゃないか? だって、あの高柳家だぜ? そういう意味じゃ、玉の輿みたいなもんだ」

「……いや、それは……」

「もちろん、恋愛結婚でもないのに乗り気になれないのはわかる。でも、“一年だけ”だ。離婚だって別に不可能じゃないだろ? 法律的にも一年後に離婚すればいい話。仕事みたいなもんだよ」

英盛の言い方には、いささか妹を思いやる気遣いが足りないようにも思えるが、彼らしい実利的な考え方だ。そして、壮一郎の方も英盛の後押しにうなずくようにしている。

「君にリスクがあるのは承知している。ただ、俺も、父からのプレッシャーをどうにかしたい。少なくとも妻を得て、形式だけでも落ち着けば、父は今すぐの経営参画を要求しないだろう。俺も外科医とビジネスの両立に集中できる」

「…………」

涼子の胸中にはさまざまな思いが駆け巡る。子供のころの壮一郎への淡い恋心、失恋のショック、仕事を辞めて虚無感に苛まれている現状……。
そんなとき、この提案はあまりにも救済策として都合がいいのかもしれない。一年間だけ“契約結婚”をして、家計の心配から解放されるなら、それはそれで悪くない話ではある。

しかし……本当にそれでいいのだろうか。壮一郎は昔から涼子の憧れの人だった。そんな相手と形だけの結婚をし、何もないままに一年が経ち、別れを迎える。……自分の心は耐えられるのだろうか。それとも、割り切るしかないのだろうか。
彼の姿を見ると、冷静そうな瞳の奥に、かすかな焦りの色がにじんでいるように思える。何としてでも、この契約をまとめたいという強い意志。もしここで断ったら、彼は別の女性を探すのか。たとえば倉本桜のような……。そう考えると、胸がずきりと痛む。そして同時に、なぜか嫌な汗がにじむ。
——自分に、この話を受ける以外の選択肢はあるのだろうか。兄も賛成している。一年間という期限なら、もしものときは離婚すればいい。それに、子どもの頃の憧れだった壮一郎に近づける機会でもある。冷静な思考を保とうとする一方で、心の奥底で何かがざわめいていた。

「……わかりました。私で良ければ、お引き受けします」

涼子はそっと目を伏せて、そう答えた。
決め手は、やはり“昔からの想い”だったのだろう。たとえ契約結婚だとしても、もう少しだけ彼のそばにいたい——そんな気持ちが、はかない期待を抱かせるのだ。
壮一郎は小さく息をつき、どこか安堵の表情を浮かべる。そして、すぐに立ち上がった。

「ありがとう。では、時間が惜しいからさっそく籍を入れよう。今月中には段取りを整えられるよう手配する。挙式や披露宴は省略だ。書類上、きちんと夫婦になればいい。英盛、手続きのフォローを頼むぞ」

「おうよ、任せとけ。書類関係は俺が一通りまとめてやるよ」

こうして、涼子は驚くほどあっさりと結婚することになった。
形式だけの夫婦関係。そこには愛も情熱も存在しないはず——だが、果たして本当にそう割り切れるのだろうか。
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