スパダリ起業家外科医との契約婚
第六章 新婚生活
第六章 新婚生活
書類上の準備は驚くほど早く進んだ。
わずか二週間後、涼子は壮一郎とともに区役所へ出向き、婚姻届を提出した。婚姻届の証人欄には英盛と、壮一郎の父・彦造がサインしている。実際に対面する場面はまだなかったが、高柳院長は「ようやく壮一郎も腰を落ち着けてくれる」と喜んでいるらしいと聞いた。
挙式や披露宴もないまま、涼子は壮一郎が用意した都心のマンションへ引っ越した。もとは彼が病院勤務の利便性を考慮して借りていた場所で、2LDKの広々とした空間だった。インテリアはすでに整えられていて、冷蔵庫や洗濯機、ベッドも完備されている。
契約結婚なのだから、あまり情緒的な演出は期待できないと思っていたが、それでも新居へ足を踏み入れると、どこか心が浮き立つ。
しかし、その浮き立ちも束の間のこと。壮一郎からは「好きにしていい」という言葉を聞いたきり、放置状態が続いた。
彼は外科医としての手術スケジュールに加え、英盛との事業の事務処理や打ち合わせに追われ、家に帰ってこない日も少なくなかった。朝早く出て行き、深夜に戻ってきたり、そもそも当直や緊急手術で病院に泊まり込んだりすることもある。
(想定していたことだけど、ここまで顔を合わせないとは……)
涼子は、家事をするでもなく、ただ広いリビングでぼんやり過ごす時間が多くなっていた。
もちろん、部屋は清潔に保とうと掃除はしっかりしているし、料理も少しずつ勉強している。しかし夜になっても夫は帰宅しない。翌日の朝になっても、不在が続くこともしばしばだ。キッチンに料理を作り置きしておいても、手をつけた形跡が見られずに処分することも多々あった。
気が滅入ってしまいそうになるが、これも“契約結婚”の現実なのだと自分に言い聞かせる。
仕事で忙しい夫を責める立場にはない。何せ自分は、一年間だけの妻でしかないのだから。
そんなある日の午後、ふとした拍子に壮一郎のスマホがテーブルに置き忘れられていることに気づいた。
普段は顔を合わせる時間がほとんどないのに、スマホを忘れていくなんて珍しい。まさか、緊急の呼び出しがあったらどうするのだろう。おそらく彼のもう一台の業務用スマホがあるのかもしれないが、心配になる。
とはいえ、夫の私物に勝手に触るのは気が引ける。涼子はマンションの固定電話を使って、兄に連絡を入れた。
「兄さん? スマホ……壮一郎さん、忘れてるみたいなんだけど」
「ああ、それは連絡来てたよ。病院のスマホがメインだから問題ないってさ。夕方に一度家に取りに戻るって言ってたから、それまで放っておいていいよ。で、お前は暇してるだろ? たまには俺の会社に顔出すか?」
「……うん、そうだね。お昼を適当に済ませたら行ってもいい?」
「OK。じゃあ待ってるよ」
こうして、涼子は少し気分転換も兼ねて、兄の会社——つまり高柳壮一郎と共同経営しているベンチャー企業のオフィスを訪れることにした。
場所は先日訪れた高柳家の別邸の一部だが、今はスタッフも増えて賑やかになっていると聞く。
オフィスに着くと、確かに十数名のスタッフがパソコンに向かい、AIを使った医療インフラシステムの開発や運営に奔走している様子だった。英盛が「よう来たな」と笑顔で出迎え、手が空いている社員たちに「俺の妹だ」と紹介する。
AIを使った医療インフラシステムとは、端的に言えば病院や診療所を結ぶネットワークを構築し、患者のカルテデータや検査結果、さらには最新の医療研究成果をAIを使って効率的に共有できるようにする仕組みらしい。遠隔地の専門医とのオンライン連携や情報共有をスムーズに行うことで、医療の質やスタッフの働きやすさを向上させるという目的を持っている。
まるでSFのような先端技術の話だが、英盛と壮一郎はそれを現実にしようとしているのだ。
「……難しそうだけど、すごいね。私なんかついていけないや」
「いや、まだ始まったばかりだけどな。でも、壮一郎のアメリカ時代のコネとか、MBAで学んだノウハウがめちゃくちゃ役立ってる。彼は本当に頭が切れるし、交渉も強い。おかげで大手医療機器メーカーからも引き合いが来ているよ」
「クラモトホールディングス……のこと?」
ふと倉本桜の姿が脳裏に浮かぶ。彼女はアメリカ留学時代、壮一郎と親しい間柄だったとも聞いている。
「ああ、そう。倉本桜さんが、いま積極的に動いてくれている。実は今回、うちの会社との業務提携を前向きに進めようって話があるんだよ。主に海外展開の部分で、向こうが持ってるネットワークを活用させてもらえそうでな。もちろん利害が一致してるから向こうも協力的だけど……それ以上に、桜さんは何かと“壮一郎に会わせてほしい”って俺に言ってくる。まあ、わかりやすいよな」
英盛は苦笑いする。やはり桜は壮一郎を個人的にも狙っているのだろうか。
「でも、壮一郎さんはどうなんだろう? 桜さんにはあまり興味なさそうに見えたけど……」
「そりゃ興味はないだろう。あいつは誰に対してもクールだからな。ただ、桜さんは相当の資金力とコネクションを持ってるし、権威とか名声を得たいっていう欲求も強いみたいだ。あいつにとってはビジネスパートナーとしては悪くないが、プライベートは別、っていうのが壮一郎の考えじゃないか?」
英盛の言葉に、涼子は少し安堵を覚える。
たとえ契約結婚とはいえ、夫が他の女性に関心を持っているのは気分のいい話ではない。それは隠しようのない嫉妬心だが、それが自分の立場上、正当なものなのかどうかもわからない。
「そっか……あの桜さん、本当に綺麗で華やかな人だよね。私なんかにはないオーラがあるというか……」
「お前はお前でいいとこがあるだろ。そんなもん、人と比べても仕方ないさ。それに、壮一郎はもともと“役に立つ相手”とか“同じレベルの人間”以外には興味を持たないからな。俺としては、お前がどんな評価をされてるのか知らんが……」
その言葉が胸に突き刺さる。“同じレベルの女性しか相手にしない”という噂。
自分はその基準に合っているのか、あるいはまったく興味を持たれていないのか。考え出すと胸が苦しくなる。
そんな会話をしているうちにスタッフが「英盛さん、お客さまがいらっしゃいました」と呼びに来た。英盛は立ち上がり、軽く涼子の肩を叩いて言う。
「まあ、何にしても気にすんな。お前は妻として堂々としとけばいい。あいつのことだから、そのうち必要なときは頼ってくるよ」
英盛はそう言い残して去っていった。
オフィスの一角に取り残された涼子は、パソコンのモニターに映るAIのデータ群を眺めつつ、ふと想像する。
壮一郎は外科医としてオペにも専念し、ベンチャー企業の経営にも携わっている。そんな超人的な日々をどんなモチベーションで過ごしているのだろう。医師として患者を救うこと、AIシステムで医療を変えること——それらは壮大で尊い目標に違いないが、彼自身の心はどうなっているのだろうか。
ふと、自分の存在は彼の中でどんな意味を持つのか気になった。
契約上の妻でしかないのか。あるいは、何らかの安らぎを与えられる相手になり得るのかを。
書類上の準備は驚くほど早く進んだ。
わずか二週間後、涼子は壮一郎とともに区役所へ出向き、婚姻届を提出した。婚姻届の証人欄には英盛と、壮一郎の父・彦造がサインしている。実際に対面する場面はまだなかったが、高柳院長は「ようやく壮一郎も腰を落ち着けてくれる」と喜んでいるらしいと聞いた。
挙式や披露宴もないまま、涼子は壮一郎が用意した都心のマンションへ引っ越した。もとは彼が病院勤務の利便性を考慮して借りていた場所で、2LDKの広々とした空間だった。インテリアはすでに整えられていて、冷蔵庫や洗濯機、ベッドも完備されている。
契約結婚なのだから、あまり情緒的な演出は期待できないと思っていたが、それでも新居へ足を踏み入れると、どこか心が浮き立つ。
しかし、その浮き立ちも束の間のこと。壮一郎からは「好きにしていい」という言葉を聞いたきり、放置状態が続いた。
彼は外科医としての手術スケジュールに加え、英盛との事業の事務処理や打ち合わせに追われ、家に帰ってこない日も少なくなかった。朝早く出て行き、深夜に戻ってきたり、そもそも当直や緊急手術で病院に泊まり込んだりすることもある。
(想定していたことだけど、ここまで顔を合わせないとは……)
涼子は、家事をするでもなく、ただ広いリビングでぼんやり過ごす時間が多くなっていた。
もちろん、部屋は清潔に保とうと掃除はしっかりしているし、料理も少しずつ勉強している。しかし夜になっても夫は帰宅しない。翌日の朝になっても、不在が続くこともしばしばだ。キッチンに料理を作り置きしておいても、手をつけた形跡が見られずに処分することも多々あった。
気が滅入ってしまいそうになるが、これも“契約結婚”の現実なのだと自分に言い聞かせる。
仕事で忙しい夫を責める立場にはない。何せ自分は、一年間だけの妻でしかないのだから。
そんなある日の午後、ふとした拍子に壮一郎のスマホがテーブルに置き忘れられていることに気づいた。
普段は顔を合わせる時間がほとんどないのに、スマホを忘れていくなんて珍しい。まさか、緊急の呼び出しがあったらどうするのだろう。おそらく彼のもう一台の業務用スマホがあるのかもしれないが、心配になる。
とはいえ、夫の私物に勝手に触るのは気が引ける。涼子はマンションの固定電話を使って、兄に連絡を入れた。
「兄さん? スマホ……壮一郎さん、忘れてるみたいなんだけど」
「ああ、それは連絡来てたよ。病院のスマホがメインだから問題ないってさ。夕方に一度家に取りに戻るって言ってたから、それまで放っておいていいよ。で、お前は暇してるだろ? たまには俺の会社に顔出すか?」
「……うん、そうだね。お昼を適当に済ませたら行ってもいい?」
「OK。じゃあ待ってるよ」
こうして、涼子は少し気分転換も兼ねて、兄の会社——つまり高柳壮一郎と共同経営しているベンチャー企業のオフィスを訪れることにした。
場所は先日訪れた高柳家の別邸の一部だが、今はスタッフも増えて賑やかになっていると聞く。
オフィスに着くと、確かに十数名のスタッフがパソコンに向かい、AIを使った医療インフラシステムの開発や運営に奔走している様子だった。英盛が「よう来たな」と笑顔で出迎え、手が空いている社員たちに「俺の妹だ」と紹介する。
AIを使った医療インフラシステムとは、端的に言えば病院や診療所を結ぶネットワークを構築し、患者のカルテデータや検査結果、さらには最新の医療研究成果をAIを使って効率的に共有できるようにする仕組みらしい。遠隔地の専門医とのオンライン連携や情報共有をスムーズに行うことで、医療の質やスタッフの働きやすさを向上させるという目的を持っている。
まるでSFのような先端技術の話だが、英盛と壮一郎はそれを現実にしようとしているのだ。
「……難しそうだけど、すごいね。私なんかついていけないや」
「いや、まだ始まったばかりだけどな。でも、壮一郎のアメリカ時代のコネとか、MBAで学んだノウハウがめちゃくちゃ役立ってる。彼は本当に頭が切れるし、交渉も強い。おかげで大手医療機器メーカーからも引き合いが来ているよ」
「クラモトホールディングス……のこと?」
ふと倉本桜の姿が脳裏に浮かぶ。彼女はアメリカ留学時代、壮一郎と親しい間柄だったとも聞いている。
「ああ、そう。倉本桜さんが、いま積極的に動いてくれている。実は今回、うちの会社との業務提携を前向きに進めようって話があるんだよ。主に海外展開の部分で、向こうが持ってるネットワークを活用させてもらえそうでな。もちろん利害が一致してるから向こうも協力的だけど……それ以上に、桜さんは何かと“壮一郎に会わせてほしい”って俺に言ってくる。まあ、わかりやすいよな」
英盛は苦笑いする。やはり桜は壮一郎を個人的にも狙っているのだろうか。
「でも、壮一郎さんはどうなんだろう? 桜さんにはあまり興味なさそうに見えたけど……」
「そりゃ興味はないだろう。あいつは誰に対してもクールだからな。ただ、桜さんは相当の資金力とコネクションを持ってるし、権威とか名声を得たいっていう欲求も強いみたいだ。あいつにとってはビジネスパートナーとしては悪くないが、プライベートは別、っていうのが壮一郎の考えじゃないか?」
英盛の言葉に、涼子は少し安堵を覚える。
たとえ契約結婚とはいえ、夫が他の女性に関心を持っているのは気分のいい話ではない。それは隠しようのない嫉妬心だが、それが自分の立場上、正当なものなのかどうかもわからない。
「そっか……あの桜さん、本当に綺麗で華やかな人だよね。私なんかにはないオーラがあるというか……」
「お前はお前でいいとこがあるだろ。そんなもん、人と比べても仕方ないさ。それに、壮一郎はもともと“役に立つ相手”とか“同じレベルの人間”以外には興味を持たないからな。俺としては、お前がどんな評価をされてるのか知らんが……」
その言葉が胸に突き刺さる。“同じレベルの女性しか相手にしない”という噂。
自分はその基準に合っているのか、あるいはまったく興味を持たれていないのか。考え出すと胸が苦しくなる。
そんな会話をしているうちにスタッフが「英盛さん、お客さまがいらっしゃいました」と呼びに来た。英盛は立ち上がり、軽く涼子の肩を叩いて言う。
「まあ、何にしても気にすんな。お前は妻として堂々としとけばいい。あいつのことだから、そのうち必要なときは頼ってくるよ」
英盛はそう言い残して去っていった。
オフィスの一角に取り残された涼子は、パソコンのモニターに映るAIのデータ群を眺めつつ、ふと想像する。
壮一郎は外科医としてオペにも専念し、ベンチャー企業の経営にも携わっている。そんな超人的な日々をどんなモチベーションで過ごしているのだろう。医師として患者を救うこと、AIシステムで医療を変えること——それらは壮大で尊い目標に違いないが、彼自身の心はどうなっているのだろうか。
ふと、自分の存在は彼の中でどんな意味を持つのか気になった。
契約上の妻でしかないのか。あるいは、何らかの安らぎを与えられる相手になり得るのかを。