青い便箋
グラウンドと校舎の間にある芝生は、ストレッチやクールダウンをする時の場所になる。
この時間が、遥香には一番楽しみな時間であった。
数本の木々と校舎の影が創り出す、小陰ができる芝生に寝転んで体をひねりながら、より近くで音が聴ける時間は至福のひとときだった。
タイミングが合うと軽音部の休憩と重なり、高杉先輩が時々、視聴覚室の窓の向こうでメンバー達と校庭を見ながら話をする姿が見られる。
さらに幸運な日は、先輩が窓を開けて外にいる運動部の友達に声をかけ、ふざけあう光景が見られる。その時の先輩の楽しそうな表情は、遥香の胸の奥がきゅうっと一瞬痛みを感じるほどに眩しい。
しかし、先輩達の会話を聞き取り、些細なことでも情報を得るため、いつまでもうっとりと浸っている間はない。すぐに脳内を切り替え、授業ではほぼ死んでいる遥香の集中力を覚醒させ、股関節を伸ばしながら耳を澄ます。
先輩が友達と、どんな話題をしているのか。
「明日マンガ返せよ」「お前よりテストの点、2点上だったし」「俺のコロッケパン食ったのお前だろ!」
こんなどうでもいいやりとりも、遥香にとって大事な活力となる。
「単なる盗み聞きじゃん」
遥香の努力を、3人の友はあっさりと、いとも簡単に吐き捨てる。
高杉先輩を知る仲のいい先輩も友人もおらず、遥香は高杉先輩に関してはほぼ何も知らないも同然だ。だから少しでも何か知りたい、切ない乙女心というヤツだ。
前髪をよく触るクセがあること。制服のワイシャツはいつも上から2つ目までボタンを開けていること。カバンに付いている数個のキーホルダーから、あのアニメの、あのキャラクターが好きらしいということ。
見た目から判断・予想できるようなことばかりだ。
色んなことを知りたい半面、知りすぎるのも怖い。
先輩は進路を決めているのだろうか。音楽関係なのか。普通に進学するのか、何か他に夢があるのか。
先輩との距離がそもそも遠いのに、そんなことを考えると、卒業してしまったらもっと果てしなく遠い人になってしまいそうで、あまり聞きたくはない部類でもある。
中でも「彼女の存在」は最も耳を塞ぎたくなる一つだ。
先輩を好きな女子は、自分を含め、たくさんいるはず。あんなにカッコよく、完璧なのだ。「彼女」や「好きな人」が何人いたっておかしくない。
だが今の遥香には、いるかもしれない「彼女の存在」をも超越する、高杉将希という人間そのものが、遥香を頑張らせてくれる、高めてくれる大切な存在、かつ原動力となっている。「生きがい」なのだ。
だから、彼女がいてもいい。いや、いない方が正直嬉しい。けれど、自分が先輩に彼女や好きな人がいないことを望んだところで、誰かと張り合ったり、対象になり得るわけがないのは重々承知している。
遥香にとっての理想の象徴であってほしいという願望。勝手に願望にさせられている先輩には、全くもって迷惑な話で、申し訳なく思うけど、知らないのだからまぁいいかとも思う。
理由を無理やりつけてでも、ただ夢を見たい。ただ、元気な先輩がいてくれたら、それだけでいいのだ。
なんだか孫を思うおばあちゃんみたいだな…16歳の乙女は、はしゃぐ先輩を見つめながら自分をそう思って、笑ってしまうのだ。
学年の違う先輩の姿を、毎日見ることはできるわけがなく、部活中に「BREEZY」の演奏が聴けない時もあったし、定期テストが近づくと、テスト1週間前から部活停止期間に入るため、絶対に聴くことはできない。
この学校に入ると決意したあの日から、好きではなかった勉強にやる気スイッチが入り、遥香は猛烈に頑張った。多分、合格ラインギリギリで滑り込んだはずだ。だから、全新入生の中でかなりの劣勢スタートな自覚はある。でも、そのとおりに落ちこぼれるのは自分に悔しくて嫌だった。
先輩との出会いで勉強にやる気が生まれ、ここまで来られた。無駄にしたくない。やりくりして塾に通わせてくれた親のためにも、そこそこには頑張りたいと思う。
テスト期間中の学校は、なんとなく、もの静かで淋しい感じがする。
遥香もこの静かな期間だけは、学校での高杉熱を少しだけ休ませ、家に帰ってからは「BREEZY」がライブで演奏していた曲を、原曲のアーティストで組み直したマイリストを流し続け、先輩の声を聴いたような気になりながらテスト勉強をする。
「BREEZYのライブ音源だったらもっと頑張れるんだけどなぁ…」贅沢な願望を口にしながら、会えず聴けずの淋しい気持ちを、これで少しだけ回復させ、またテスト勉強を続ける。
高杉先輩の声や姿に会えるかもしれないという期待は、毎日朝早く起きる辛さを、学校までの長い道のりを、意味が理解しづらい難しい勉強やテストを、部活の苦しくきつい練習を、全て楽しみに変換してしまうことができる。高杉先輩は神だ。