青い便箋
遥香は聖地3年生エリアへ、偶然を求めて2度、足を踏み入れた。
1度目は、ホームメイド部の美穂が、部長のクラスへ行く時だった。美穂は、提出しなければならない課題の期限に間に合わず、焦っていた。後日、間に合わなかった謝罪と作品提出をするため、「部長のところへ行ってくる」と、3人に言い残し、美穂は気が重そうな暗い顔つきで席を立った。
その美穂の後ろを、遥香はしれっとついて行く。
緊張で部長のクラスへ向かう美穂に対して、初めて足を踏み入れる大人の香り漂う3年生エリアに舞い上がる遥香は、美穂の後ろを、一応気配を消しているつもりの忍び足で付いていく。
ホームメイド部長のクラスは、高杉先輩の隣のクラスだったため、両クラスの境目辺りで遥香は美穂を待っていた。
教室のドアの窓ガラスからチラチラ見え隠れする先輩のクラスメイト達を見るだけで興奮してしまう。
先輩に会えなくとも、ここに立っているだけで身震いが起こる。
興奮する気持ちを抑えるため、遥香は口元を両手で押さえる。手を離したら「キャーッ」と言ってしまいそうだからだ。
用を済ませた美穂は、遥香のもとへ駆け寄った。
口を押さえ、高杉先輩のクラスをガン見する遥香を見つめる。
「遥香、完全に私を利用したよね」
戻ってきた美穂に気づいた遥香は、
「あ、美穂。…大丈夫だった?」
「心配が遅いわ」
緊張から放たれた美穂は、目的違いの必死な遥香の様子に笑いが止まらなかった。
2度目は、演劇部の紀子が夏休み明けに行われる演劇大会地区予選の演目に使う小道具運びを手伝った時だった。裏方の小道具担当である紀子は、小道具集めや作成をする。演劇部の練習や活動は、主に多目的室で行われていた。その多目的室は、3年生の教室がある階の一番奥、突き当たりにある。
普段、多目的室は部活や臨時的なこと以外でほぼ利用する機会がない。軽音部が活動する視聴覚室の真上であり、かつ3年生の教室と同じ階であることに、遥香は紀子をいつも羨ましがっていたが、紀子は「音と振動がうるさいのよ」と、迷惑そうに言い放つ。
何を作るのか、どんな場面で使うのかわからないが、ハンガーラックと大きな発泡スチロール箱数個、大量の古新聞を、職員室前から多目的室へ遥香・美穂・祐子の3人で運び込むという大仕事を頼まれた。
今回は口元を押さえることができない遥香は、ハンガーラックに付属で付いている数本のハンガーをまとめて片手で押さえつつ、ハンガーラックを押して3年生の教室を通過せねばならない。先輩のクラスの前にさしかかると、口元を硬く閉じ、窓ガラスの中をまじまじと見たが、往路は先輩の姿を見つけられなかった。
荷物を指定された場所に置き、あっという間に無事任務を果たした。
「先輩いた?」
祐子が遥香に聞いた。
「全然わかんなかった。でもいいの。先輩がいる場所の空気吸えれば」
「何それ…」
気持ち悪そうに祐子は遥香を見る。
多目的室の鍵を紀子が締めて先頭に立ち、また教室前を通過して帰る。
「遥香、舞い上がってコケないでよ…」
紀子が振り向いて声をかけた数秒後、後ろから遥香の短く小さな悲鳴が上がった。
縦1列に先輩の教室前を通過する4人の一番後ろにいた遥香は、紀子の前方で教室へ入ろうとする先輩をとらえた。遥香は瞬間で喜んで跳び上がったが、着地した足がもつれた。そして完全にバランスを崩し、廊下を防ぐように転んでしまった。頭が真っ白の中、じわじわくる右尻の痛みに強烈な恥ずかしさも加わり、起き上がることができない。
既にサッサと先へ進んでいた3人の友が、後ろで起きた事態に気づいた時、後ろから男子陸上部3年の副部長が通りかかった。
「大橋…?なんでここに転がってんの?」
好きで転がっているわけがない。
副部長は、恥ずかしさと気まずさで固まる遥香の背中を起こし、
「スプリンターは足が命なんだから気をつけろ」
真顔で副部長に注意され、遥香は「すみません…」と凹む。
3人の友は、呆れつつも笑いをこらえ、尻を押さえる遥香を見ていた。
一瞬幸運が訪れたにも関わらず、痛めた尻を押さえながら逃げるように聖地を後にした。