離婚を前提にお付き合いしてください ~私を溺愛するハイスぺ夫は偽りの愛妻家でした~
「美鈴の夫です。塾の方ですか?」

 堂々と夫と宣言した千博に美鈴はぎょっとし、隣の彼を仰ぎ見る。千博は磯崎に対してやわらかな微笑みを浮かべて対峙しており、外向きの顔を作っているのだと察する。

 おかしな態度を取られるよりは余程いいが、優しい夫を演じられるのも困る。

 間違ったことをしているわけではないが、今の関係を考えると正解とは言えないだろう。

 磯崎の反応が怖いと恐る恐る彼の方へ目を向けてみれば、磯崎は驚きの表情を浮かべていたものの、すぐにいつもの笑みに変えて、千博に挨拶し始める。

「桑原先生のご主人ですか。同じ塾に勤めている磯崎と申します。いつも奥様にはお世話になっております」
「いえ、こちらこそ妻がお世話になっております」

 軽く頭を下げて挨拶し合う二人に美鈴はますます焦る。これ以上はもう何も話さないでくれと、二人の間に割って入った。

「あの、はる先生、どうされましたか?」
「あ、そうそう。これ、忘れ物です」

 その言葉と共に差し出されたのは一冊の辞典。それは美鈴が愛用する英英辞典で、長く使い込んでいるもの。電子辞書も持ってはいるが、手に馴染んで使いやすいこの辞典はどうしても手放せない。

 慌てて鞄を確認してみれば、確かに辞典が入っていない。急いで出たから忘れてしまったのだろう。

「本当だ……すみません、届けていただいて。ありがとうございます。助かります」
「いえいえ。気づけてよかったです。では、私はこれで失礼しますね」

 さすがと言うべきか、磯崎は探るようなことはせず、すぐに塾の中へと戻っていった。
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