君といた時間は死んでも忘れないよ

幽霊さん、初めまして


今日の授業が全て終わり、教室にいた生徒たちがぞろぞろと帰っていく。私は教科書などをスクールバッグに詰め込んで、帰宅する準備をする。今日は特に放課後、学校に残ることなんてなかったはずなので、いつも通りあの場所に行くことが出来る。
今の私は誰から見ても、機嫌がいいことが分かるだろう。口角は上がっていて、今にも鼻歌をかなで始めそうだ。それほど、私はあの場所に行くことを待ち望んでいるのだ。
楽しみで仕方ないっと思っている私に後ろから誰かが声をかけた。
「どうしたん、そんなに楽しそうで。いい事でもあったの?」
後ろに振り返ると、そこに立っていたのは私の高校からの友達の後宮音寧《あとみやねね》であった。音寧は不思議そうに首を傾げている。
私はよくぞ聞いてくれましたっと言わんばかりの笑みを貼り付けて、自信満々に口を開いた。
「今日は海に行くんだ」
私がそう言うと、音寧は「え、また?前も行ってなかったっけ?」と純粋に疑問を口にする。
そう、私はよく学校から近い海に行くことが多い。あの海は何と言うか、あそこにいるだけで気分が良くなるというか、気持ちが温まるというか……。まぁ、兎に角あの海にいると癒されてしまうのだ。
人間がストレスなどを解消する時に、可愛らしい庇護欲が唆る動物を見て癒されるのと一緒で、私もあの海にいると疲れていた心があっという間に回復してしまう。なんと素晴らしいことでしょう。
それに、あの海にいると懐かしい気もして、ボーッと海を眺めるのが最近のブームだ。
「前も行ったけど、今日も行くよ。音寧も来たい?」
「いや、私はパス。普通に部活ある」
「そっか、じゃあ今度ってことで」
「あれ?これ私行く前提なの?」
音寧はバスケ部に入っているから、あの海に連れていくことは普段は難しいかも。だから、今度ならいいよねっと思ってそう言ったのだが、音寧は自分が行く前提なのが気になるらしい。
私はその音寧の言葉に少し驚いて、目をパチリと瞬きする。
「え?行かないの?」
「え?行くけど?」
どうやら音寧は普通に行く予定であったらしい。次はお互いに目をパチリと瞬きを繰り返す。
そして、数秒私と音寧の間に沈黙が落ちる。先に口を開いたのは、私だった。
「ならいいじゃん」
「あ、そうだね」
お互いにそう納得する。何故か妙な沈黙が落ちいた気もしなくはないが、私は気にすることなくスクールバッグに残りの教科書を詰め始める。
音寧はもう部活に行く準備が終わっているようだけど、この場からいなくなる気配はしない。どうやら、私の事を待っていてくれるらしい。相変わらず優しいなっと思いながら、これ以上待たせるのも良くないので私はパパっと帰宅する準備を終わらせた。
「ごめんね、待たせちゃって。もう行けるよ」
「いんや、全然いいよ。じゃあ校門までね」
私はスクールバッグを肩にかけると、先に教室を出た音寧の横まで小走りで行く。
二人で廊下を歩いていると、音寧が「あっ」思い出したように口を開いた。
「明日さ、明那《あきな》の家行く約束してたじゃん?」
「それがどうしたの、え、もしかして何か用事入った……?」
私が恐る恐るそう言うと、音寧は「そのまさかだよ……」と頭垂れている。どうやら、用事が入ってしまったらしい。
私は別に用事を振り切ってまで家に来て欲しい訳ではないし、無理強いは出来ればしたくないと思ってる。だから、「用事あるんでしょ?うちはいつでもウェルカムだからさ、またおいでよ」と俯いている音寧の頭を優しく撫でる。
音寧はゆっくりと顔を上げると、小さく呟いた。
「は?神か……?」
と、いや人間ですが。そう思ったが、神になれるのらなってみたかったので、神様ムーブを楽しむことにした。
「そうだよ、私は神なんだよ。崇めよ」
私が少し上を向きながらそう言うと、音寧は乗ってきたのか「ははー、明那神様マジ最強っす」と頭を二回下げて、二回拍手すると、最後にもう一度頭を下げた。それ、神社に参拝するやつではっと思ったが私が本当に神様になれた気分になるので少し楽しかった。
私のノリに乗ってくれた音寧に何か明那神様として、いいことを伝えようと思ってまた少し上を向いた。
「音寧よ、最近何か成功してほしいことはない?」
「えー、うーん、……やっぱり彼氏とこれからも上手くいくといいな」
「え、彼氏いたの?初耳なんだけど」
音寧の彼氏と上手くいく発言に私は思わず明那神様をやめて、音寧の友達の明那として口を挟んでしまった。だって、私は音寧に彼氏がいることを知らなかったから。驚いてしまうのは仕方ないことだろう。だって、彼氏が以下略。
音寧は「あれ?言ってなかったっけ?」とこちらを見ながら首を傾げている。
「うん、聞いてない。てか、いつから付き合ってたの?」
「一昨日」
「一昨日!?」
まさかの一昨日。そりゃ知らない訳だ。音寧も私に伝えるのを忘れていたのだろう。ちょっと悲しいこともないわけではないが、この際どうでもいい。
私はこの大事な友人の音寧がどこの馬の骨かも分からない小童と付き合ってるかが問題だ。変な奴だったら、音寧が説得するまで泣き落とすしかないな。私がそう思いながら、音寧のまだ名前も顔も知らない彼氏に対して燃えていると、音寧に「何その目、うける」と言われてしまった。
何だうけるって、私は今音寧のことをこんなにも考えているってのに。人の気も知らないで……。
「その彼氏って、どんな人?」
「えっと…、あーアスラみたいな人」
「よしっ、許そう」
「はっや」
私は即座に名前も顔も知らない男が音寧の彼氏をしていることを許した。
アスラとは私が好きな漫画のキャラクターだ。アスラはかっこよくて、優しくて、クラスのムードメーカーのような性格で、おまけに照れると可愛いと言う属性付き。アスラを好きにならない方が難しい程に、アスラという男は魅了が詰まっている。
そんなアスラみたいな男が音寧の彼氏なんて、何がなんでも許さなければいけない。アスラみたいな男に悪いやつはいない、私は絶対そう思っている。てか、そうであってくれ。
「彼氏(アスラ)と上手くいくといいね」
「私の彼氏がアスラに似ている訳であって、アスラではないからな?」
「あ、そっか」
危ない危ない、音寧の彼氏をアスラと同一人物にするところであった。アスラはアスラで、音寧の彼氏は音寧の彼氏だもんね。そこはしっかりと分けて置かないと。
それにしても、彼氏ね……。私の人生のパートナーはいつ現れるのやら。
「いいなー、彼氏。私も欲しいな」
私が羨ましくそう言うと、隣にいた音寧は突然と歩くのをやめて立ち止まった。突然と立ち止まってしまった音寧に私は驚いた。そして、数秒経っても動かない音寧を心配して、私は音寧の地雷に触れてしまったのではないかと、少しオロオロと慌てながら「だ、大丈夫?」と俯いてる音寧の顔を覗き込んだ。
「……え」
覗き込んで見た音寧の表情が今にも泣き出しそうで、それでいて怒りを孕んだ顔をしていて私は思わず声が出てしまった。音寧がどうしてそんな表情をするのかが分からなくて、「なんで泣きそうな顔してるの」なんて言えるはずなくて、私はただ立っていることしか出来なかった。
廊下では私と音寧以外にも歩いている人がいて、立ち止まっている私と音寧を怪奇な目で見ている。当たり前のように廊下はガヤガヤと騒がしいはずなのに、私と音寧がいる場所だけがまるで音がなくなったかのように静かであった。
私からしたら数分の沈黙でも、本当は数秒しか経っていない沈黙を破ったのは、音寧が静かに口を開いたからだ。
「あ、ごめん。明那に彼氏出来て欲しくないからさ、思わず歩くのやめちゃった」
「そ、そうだったんだ。私は彼氏ほしいけどね、まぁ音寧が言うなら今は作るのやめようかな」
いつの間にか顔を上げていた音寧の表情は、先程の面影なんてなく、いつもの怠そうでそれでいて音寧らしい顔つきに戻っていた。
音寧の言っていることは嘘には感じられなくて、本当に私に彼氏が出来て欲しくないんだと伝わった。音寧は確かに、私に過保護かもしれない。でも、私のやりたいことはいつも尊重してくれた。だから、何か理由があるって分かってる。分かってるけど……、その理由を聞いてはいけない気がした。
だから、私はもうこの話題は出さないと心の中で誓った。音寧にあんな顔はもうして欲しくないから。
それからは、音寧のバスケ部の話に移って、顧問の先生が厳しいなんて愚痴を聞きながら、校門まで送ってもらった。

*

学校を出た後、私はあの海まで歩いて行く。お母さんには用事がない日は、なるべく早く帰ってきなさいと言われているが、海に行くのも私の中では用事に入るので、そこは割合させてもらう。
学校から出たばかりは、帰宅している学生が大勢といたはずなのに、あの海の場所まで数分歩いていると、周りには学生は数人しかいなかった。
歩きながら、チラリと空を見上げる。まだ夏の始まりの時期だからか、空は青く快晴であった。昨日は雨であんなに天気が悪かったのに、一日でこうも変わるんだなっと感心する。
そう空を眺めながら、歩いていると、あの海の岸辺が見え始めた。思わず足は駆け足になり、どんどん視界に広がっていく青い海を見つめた。
海に到着すると、一度乱れている呼吸を落ち着かせる。膝に手をついて、ハァハァっと酸素を欲しがっている体に深く深呼吸をして、目一杯息を吸う。漸く、呼吸がしやすくなると、私は顔を上げてどこまでも続く海を眺めた。
「綺麗……」
この青い海がキラキラと輝いていて、思わず声に出てしまった。ここ最近は何回もこの場所に訪れているが、矢張り何回みてもこの海は綺麗だ。眩しいほどに、太陽の光を反射しているかのように海がキラキラと光っている。私は目を細めながら、もう一度「綺麗」と言おうとした。でも、私の声は後ろから発される何だか懐かしい声によって掻き消された。
「綺麗だね」
若い男性の声だった。私はこの場所に一人だと思っていたので、後ろから発される声に驚いて後ろを素早く振り向いた。
そこに立っていたのは、私より少し歳上ぐらいの男性であった。男性は私が振り向いたことに驚いたのか、目を見開いている。私もこの海に平日に来る人が他にもいたのかと、驚いているところだ。お互いに目を見開いて驚いているという、少しカオスな現状だが、先に口を開いたのは男性の方であった。
「俺が見えるの……?」
「え、見えますけど……?」
恐る恐るといったように口を開いた男性の言葉に私はまたもや驚きながらも普通に答えた。え、これ見えちゃいけないやつなのかな……、なんて今更ながら怖くなってきて「見えちゃよくないやつ見ちゃった……」と呟くと、男性が慌てて手を振りながら「あ、俺、悪霊とかじゃないから!」と言ってくれたお陰で一応安心することは出来た。私が「そ、そうですか。悪霊とかじゃないなら良かった……」と胸を手を当てながらホッと息をつくと、男性も「そうそう、俺はただの幽霊だからさ」と自身の身を打ち明けた。そう、ただの幽霊か……。
「はぁ!?幽霊……!?」
私は顔だけ振り向いていた体を全て男性に向けて、驚きを口に出した。男性はヘラヘラと笑って「え、そんなに驚く?」と呑気に言っている。
「驚きますけど!?私幽霊見るの初めてなんですから……!」
「俺が初めてってこと?なんか嬉しいね」
「いや嬉しがらないでください?」
まさかの幽霊であったとは。いや幽霊見るの初めてって何だ。幽霊見るのに初めてとかあるのか。よくよく見れば、男性の足元ら辺は薄くなっている気がする。と、言うか全体的に透明度が高い。って、そんな冷静に分析している場合ではない。なんで私は急にこの男性(幽霊)が見え始めたのだろう……、今まで幽霊なんて誰一人として見たこと無かったのに。てか、生まれてこの方幽霊を見たいと思ったことなどないのだが……。
そもそも本当にこの男性は幽霊なのだろうか。ただ透明度が高い人なだけじゃないだろうか。世の中、変な人は沢山いるわけだし、この男性も変な人の部類に入るかもしれない。
その考えに到達した私は、この男性に本当に幽霊なのかを聞いてみた。
「あの、貴方は本当に幽霊なんですか?ただの透明度が高い人間ではなく?」
「透明度が高い人間ってなに?まぁ、君の疑問は尤もだね。どう?試しに俺に触れてみる?」
その男性はそう言うと、右手をこちらに向けた。どうやら、握手で試してみようっと言うことらしい。私は勿論、提案を拒否することもなく、手を重ねようとする。が、これ普通に触っていいやつなのかっと疑問が生じる。幽霊でなかった場合、私は知らない人の手を触ることになる。普通にそれは嫌だ、そして幽霊だった場合、私は死んだ人と出会っていることになる。それも普通に怖いし嫌だ。え、これどっちも地獄じゃ……?
私がそう思っていると、男性が「どうしたの?」と疑問を口にする。私は他人に気を使える人間なので、これ以上この男性を待たせる訳にはいかない。ということで「あ、なんでもないです」と気を使った私は恐る恐る男性の手に右手を重ねた。
「……っ!」
結果は私の右手は男性の右手を通過した。確かに私の目には、そこに男性は立っている。けれど、触れることは叶わなかった。と、言うことは本当にこの男性は幽霊であった訳である……。信じたくなかったのに、今の出来事が確信せざるを得ない。
人生初めての怪奇現象に、どうすればいいか分からなくて棒立ちしている私に、男性は気を使ったのか「とりあえず、あっちの方で話さない?」と石段の方を指さしてそう言ってくれた。私は今は男性の言葉に甘えることにした、だって、人生有り得ないと思っていたことが本当になってしまうと混乱してしまうのは当たり前だと思うから。あと普通に幽霊に逆らうの怖いし……。

*

石段に二人して腰掛けると、お互いに沈黙が続いていた。先程は驚きで相手に気を使ってる暇すらなかったが、今は落ち着いているので知らない人、いや知らない幽霊?には話しづらいというかetc……。それに幽霊という想像の生き物に出会してしまって、普通に怖いというか……。あれだよ、普通に知らない人兼幽霊だよ?恐怖しない方が無理じゃないでしょうか。まぁ、恐怖は一旦置いてもらうことにして、会話に専念するか。まずさ、幽霊同士で色々話されると困ることもあるし、ここは慎重に話さないとだよね……。とりあえず幽霊集会があるかだけ、聞いてみるか。
「幽霊って幽霊集会とかあるんですか?」
「え?なんで幽霊集会?」
「いや、私が幽霊見えるとか他の幽霊に言ったら、他の幽霊も見えちゃうかも知れないじゃないですか。私、幽霊は一人で充分って言うか。プライバシーとか守りたいですしね?」
「あ、あー、なるほどね。多分、大丈夫だと思うよ」
「何がです?」
私のプライバシー守りたい発言に男性は一人納得すると、それは大丈夫だと言った。何が大丈夫なのかと、私は不思議に思いながら首を傾げると、男性は軽い口調で「君は俺しか見えないと思うからね」と海を眺めながらそう言った。私は男性の横顔しか見えなくて、どんな表情をしているかは分からなかったけど、何故だか男性は昔を思い出すような懐かしい、それでいて隣にいる私まで泣きたくなるような悲しげな雰囲気が伝わった。海の波は小さく音を立てた。
私がその男性が言った言葉の理由を聞こうと口を開こうとすると、それよりも先に男性が口を開いた。
「君の名前は?なんて言うの?」
「え、これって言っちゃっていいんですか?連れ去られるとかないですよね?」
私が少し眉間に皺を寄せながら、不審そうにそう言うと、男性は海を見ていた顔をこちらに振り向いて「連れ去られたい?」と恐ろしいほど静かに淡々と口にした。本当に今名前を言ってしまったら、あの世に連れ去られそうだと思った。
海の波はザァザァと音を靡かせているのに、この瞬間だけは息が詰まるような冷たい空気がこの場に流れてとても静かだった。男性は光のない目でこちらを見ている。先程まで置いていた恐怖が蘇ってきて怖いと思った、でもそれ以上に私はこの男性が可哀想だと思った。何故そう思ったのかは分からない、どうしても男性自身があの世に逝ってしまったことを後悔しているんじゃないかと思えてきて憐れに見えて仕方なかった。そう、見えてしまったのだ、だから、思わず……────。
「いいですよ」
そう体が口走っていた。男性は私の言葉に目を見開いてから、だんだんと苦しそうな顔付きになっていってこれ以上自分の顔を見せないように私から顔を逸らして海を見つめた。恐らく私は今の男性の顔を見てはいけない、そう思う。だから私も海を見つめた。
私自身も『いいですよ』とそう言った自分に驚いてはいる、男性が憐れで可哀想に見てたのは仕方ない。でも、私はこの男性に出会ったばっかりのはずだ、私が例えあの世に行っても男性は喜ばない。なのに、何でだろう……、不思議だ……。
先程の男性の顔は恐ろしいほど怖かった、幽霊だから尚更、でも何かに縋るようなそんな顔だった気がした。数秒、海の波が動く音だけが響く。波の音は好きだ、涼しい気分になれるから。でも、今の波の音は重く感じたのは何故だろう。
長い沈黙が続いたあと、男性が小さく呟いた。
「……簡単にいいよっなんて言わない方がいいよ。君はまだ若いんだから、未来を生きなきゃ」
「……そうですよね、やっぱり私はまだ生きますね」
「うん、そうしてよ」
男性はこちらに振り返ると優しく微笑んだ。この人は笑顔が似合うんだなっと呆然と場違いなことを思う。
男性の言ってることは最もだ。私は簡単にあんなことを言ったのを、少し後悔した。だって、私の事を思ってくれる人がこの世界には沢山いるから。特に家族と友達の音寧には、これからもこの世界を一緒に歩んでいきたい。だから、私はあの世には行けないや。
先程まで重たかった波の音が、少し軽く感じた。神様、仏様、私はまだこの世に留まりたいです。またあの世に行きたいなんて言ってしまうかもしれないけど、今のところはもう言うつもりはありません。だから、もう一度幽霊に名前を言うチャンスをくれませんか……?
私が心の中でそう願うと、応えるように波の音がザァ!っと強くなった。まるで海が私を見ているかのように、波の音が強くなる。応援してくれているのだと思う。自画自賛でも何でもいい、人じゃなくても、応援してくれる者がいるのなら……。心強い限りだね。
私はしっかりと男性の目を見る、ゴクリと唾を飲み込むと口をゆっくりと開いた。
「私は七里《ななざと》明那です。貴方の名前は?」
幽霊の男性に自分の名前を告げる。漸く言えた自分の名前。男性は私が名前を言うと思っていなかったのか、少し驚いている。先程から私たち、驚いてばかりだねっなんてちょっと笑えてきてしまう。それでも、真剣な表情を保って男性の言葉を待つ。
そうすると、男性は申し訳なさそうな顔をして、頬をかいた。
「俺、生前の名前を覚えてないんだよね」
「え、あ、その、なんかごめんなさい」
「いいよいいよ、名前以外は全部覚えてるからさ」
男性が自分の名前を覚えていなかったのは予想外であった。当然こちらも申し訳ない気持ちになるわけで、顔が俯いてしまう。私は幽霊になると引き換えに自分の名前を忘れてしまう契約でもあるのかなっなんて幽霊事情を考える。
それと、この男性に名前がないのは少し不便だと思った。これからも私はこの海に訪れるわけであって、幽霊になってもこの海に来る男性もこの海に思い出があって次も会う可能性が高い。なら、矢張り名前はあった方がいいのではないだろうか……。
でも、私にかっこいい名前なんて咄嗟に思いつくはずもなく、男性だって忘れてしまったが生きていた名前を上書きされるのは嫌だろう。なら、うーん、どうしたものか……。
私はチラリと男性を見る、男性と目が合うと私はピコンっと心の中に浮かんでいたはてながビックリマークに変わったのが分かった。
「……さん」
「ん?」
「幽霊さん!」
「え、それ俺の事?」
「勿論そうですよ。幽霊さんなんてどうですか?名前忘れちゃったんでしょ?だから、今の名前考えました」
私がいい案でしょうっと後から言うと、男性こと幽霊さんは「ふっ」と小さく笑った。私は中々にいい名前ではないだろうかっと思っていたのだが、幽霊さんの笑った姿が想像以上に綺麗で、素敵で、少し見惚れてしまった。だって、人生でこんなに綺麗に笑う人と出会ったことがなかったから。今の私はボケっと阿呆そうな顔をしているかも知れないけど、それほど幽霊さんの笑った姿は美しかったと残しておこう。
幽霊さんは見られていることに気づいたのか「そんなに見つめられちゃったら、照れるね」と少し恥ずかしそうに笑った。その恥ずかしそうな笑った姿も私は当然に好きで、「グハッ」と両手で胸を抑えつけた。なにこれ、凄い好きなんですけど……!(笑った顔が)流石に今のはダメージがきたのか、心臓がバクバクなっている気がする。てか、してる。
「どうしたの?胸抑えて」
「ヤバいです、鼓動が凄いドクドクいってます。不整脈ですか?」
「え、大丈夫?深呼吸したら落ち着くかも」
「そうですよね、ちょっとやってみます」
幽霊さんに不整脈(?)のことを言うと、心配されたので、矢張り不整脈(確定)だったらしい。私は心を落ち着かせるべく、深く息を吸って、フゥーっと息を吐く。それを何回か繰り返すと、ドクドクといっていた脈は落ち着いてた。
危ない危ない、何か器官に危険なものが入っていただとかに、なっていたら取り返しがつかなくなっていただろう。冷静な対処って大事だよね。
そうして二人とも(荒れてたのは私だけ)落ち着いたこともあり、私は改めて幽霊さんに声をかけた。
「幽霊さん、名前気に入りましたか?」
私はそう分かりきっていると言わんばかりに口角を上げて笑って問いかける。幽霊さんは「待ってました」と小さく呟くと、私の目をしっかりと見つめて……─────。
「うん、気に入ったよ明那ちゃん」
私と同じように口角を上げて幸せそうに笑っていた。名前をつけてあげただけなのに、大袈裟だなっとは思うが、幽霊さんからしたら名前をくれたことはとても大切なことなのかもれしない。私は幽霊さんじゃないから、分かんないけどね。
それとは別に気になることが一つある。私は今言った幽霊さんの言葉を反復した。
『うん、気に入ったよ〝明那ちゃん〟』
「明那ちゃん!?いきなり下の名前なんですか!?」
「知らなかったの?これは幽霊の一般常識だよ」
「幽霊の一般常識ってなんですか?」
「え、知りたいの?」
「やっぱ知りたくないです」
「幽霊常識、その一」
「あー!いいです!聞きませんよ!」
まず幽霊の一般常識とは何だっとツッコミたいが、幽霊さんが幽霊常識を一から喋りだしそうなので慌てて止める。名前で呼ぶという常識がある時点で、絶対変なのしかないわけで、聞く必要はない。てかこれ以上変なのは聞きたくない。
そして、タイミングがいいのか悪いのか分からないが、私の携帯がピロンっと音を鳴らした。私は通知が来てしまったら、直ぐに見なさいっと私の過保護代表のお母さんと副代表の音寧から言われているので、素早く携帯の光ってる画面を見る。どうやら、LINEの通知のようだ。誰からだろう……。
【今日は外食に行くから、寄り道してるなら早く帰ってきなさい】
お母さんからのLINEであった。私は久しぶりの外食発言に心を躍らせた。私の上がってしまう口角を見た幽霊さんは「どんな内容だったの?」と不思議そうに聞いてくる。私は携帯の画面を幽霊さんに見せつけると。
「今日、外食みたいです!早く帰らないと!」
と、嬉しそうに告げた。幽霊さんは「もう帰っちゃうのか……、寂しいな」と寂しさを隠すこともなく眉を下げた。何だか申し訳ない気持ちになるわけであるが、私は外食が待っているので早く帰らないといけない。でも、幽霊さんは悲しそうだ。
そうだよね、幽霊さんの今までの反応から言うと、幽霊さんのことが見えるのは私だけだったみたいだし。久しぶりのお喋り相手がいなくなると、寂しくもなるよね。でもね、大丈夫だよ。私は眉を下げていると幽霊さんを見つめると。
「幽霊さん。私ね、明日も暇なんです。だから、明日もこの海で会いましょう!約束です!」
そう笑って小指を差し出した。幽霊さんは明日も会えるとは思っていなかったのか「……明日も、会えるの?」と嬉しそうな震える声でそう言った。私は幽霊さんを安心させるべく「はい!勿論です!」とグイッと小指を幽霊さんに向ける。
そうすると、幽霊そんは恐る恐る私の小指に自分の小指を絡ませた。幽霊だから勿論、私に触れることは出来ないけど、私は目の前に幽霊さんがいると分かっている。それだけで、約束するには充分だよね。
私は幽霊さんに「せーので、約束っ!って言いますよ。いいですね?」と内緒話のようにコソコソと声をかける。幽霊さんも分かったようで「了解」と小さく口に出した。じゃあ、行くよ……!
「せーのっ!」
「「約束!」」
そうやって私と幽霊さんは声を揃えて笑った。これでお互いに明日のこの場所でまた会うことを約束した、と印が刻まれたような気がしたんだ。
約束も終えたことで、私は帰宅する準備を始める。スクールバッグを肩にかけて、腰掛けていた石段から立ち上がる。幽霊さんは約束もしたというのに、また寂しそうな、しょぼんとした子犬のような顔をしていた。勿論、そんな表情も庇護欲を唆るぐらい可愛くて好きなのだが、幽霊さんには笑顔が似合うのにな……、と思わずにはいられない。だから、私は私から見たら下にいる幽霊さんの顔を見て、精一杯の笑顔で。
「またね!」
そう手を振って呟いた。幽霊さんは寂しそうな表情からパッと顔を明るくして「うん、またね!」と優しそうな笑みを浮かべて手を振り返してくれた。やっぱり幽霊さんはそうじゃないとね、その笑った顔が一番似合うよ。そうして、私は今度こそこの海を後にして帰路に着いた。
本当は幽霊さんに出会った時点で、逃げるべきだったのだろう。でも私は、二人で石段に腰掛けながら海を眺めている時を思い出す。一人で海を見るのも好きだけど、幽霊さんと見る海は何だか一人の時よりも心地よい気がしたんだ。だから、私は明日も必ずこの海に行こうと思った。約束だしね。待っててよ、幽霊さん。
──────────この海で幽霊さんと出会ったことが、私の人生の新たな物語に繋がった。
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