偽り執事の愛し方
朝。
毎日の私の目覚ましは、時計のアラームではなく一人の男の声だ。
「おはようございますお嬢様。本日も良い天気ですよ」
音を立てて開けられた、淡い青色の遮光カーテン。入ってきた光の眩しさに顔をしかめた私は、黙って体を起こすと虚ろな目で声の方を見た。
180センチ近いスラリとした体格に、中性的な整った顔立ち。口元に浮かぶ柔らかな微笑みは、見る者を安心させる不思議な力がある。
上等なスーツを身に纏っているせいか、彼は28という実年齢よりさらに落ち着きがあるように見える。
「すぐに朝食の準備をいたしますね。着替えはお手伝いいたしますか?」
「……いい」
「失礼いたしました。では、少々お待ちください」
胸に手を当てて恭しく礼をした男は、そのまま来た場所へ引き返そうとする。
私はすっと息を吸って、それを呼び止めた。
「新田」
「はい。どういたしましたか、お嬢様」
「貴方の目的は何なの?」
「目的? それはもちろん、お嬢様に何不自由ない快適な時間を過ごして頂くこと。それだけです」
何度聞いてもこの答え以外が返ってくることはない。分かり切ってはいても、それでも聞かないわけにはいかなかった。
小さく息を吐いて、ベッドのシーツをぎゅっと掴む。
手が小刻みに震えている。この震えの原因が怒りなのか、恐怖なのか、それとももっと別の感情なのか、自分でもよくわからない。
「今日でもう一週間なのよ……」
わからないのは感情だけではない。今自分が置かれている状況が、実はまだきちんと理解できていない。
「新田、答えてください。貴方はいったい、私に何をさせたいの?」
「変なことをおっしゃいますね、綾乃お嬢様。──お嬢様は、何もしなくて良いのです。ただ、わたくしの目の届く所にいてくだされば、それでいい」
彼の浮かべる、人を安心させるような優しい微笑み。それが今の私にとっては恐怖以外の何者でもない。
私の方へゆっくり近づいて来た彼は、白手袋をはめた手でそっと私の頬を撫でる。
まっすぐ愛おしそうにこちらを見つめる双眸は、愛玩動物に向けるそれと同じような気がしてならない。
「本日の朝食は、お嬢様の大好きなフレンチトーストと蜂蜜入りのミルクティーです。すぐお持ちいたします」
固まって動けないでいる私を置いて、彼はさっと立ち上がり部屋を出て行く。
そして……ガチャリと鍵が掛かる音が、無情に響き渡った。
裕福な家庭の娘と、その使用人。
私と新田の関係は、間違いなくそれだった。──1ヶ月前までは。
今その関係は、180度変わってしまっている。
私の父を裏切り、我が家を乗っ取った新田という執事だった男。
何を思ったか、路頭に迷った私を拾い上げた彼は──私に、これまで通りの“お嬢様”でいることを望んだ。
つまり今の私たちを言葉で説明するならば、執事のような振る舞いをする主の男と、雇われた令嬢である。
◇
神宮寺家の末娘、神宮寺綾乃20歳。
某有名企業の社長を父に持ち、蝶よ花よと何不自由なく育てられてきた。
姉や兄に比べると容姿も能力も多少見劣りする部分はあったが、良家の娘に相応しい人間としてそれなりに振る舞えてきたと思う。
そんな私の前に、新田という美しい男が現れたのは5年前。私がまだ中学生のとき。
『どのようなことでもお申し付けください、お嬢様』
穏やかに微笑む彼八つ年上の彼は、一瞬で私の心を奪った。初恋だった。
それまで、私の身の回りの世話をしてくれていた人は何故か長続きしなかった。仲良くなれたと思っても、皆二か月もすれば私に何も言わずに辞めてしまう。
だからこの男も同じではないかと初めはかなり心配していたけれど、彼はずっとそんな様子を見せなかった。
それどころか、どんなときでもずっと私の隣にいてくれた。
惜しみなくお金を掛けて大切に育てられてきた私だけど、家族との仲は冷めていた。嫌がらせをされたりするわけじゃないけど、ただ無関心だった。
だから、本当の家族以上に親密に接してくれる新田はますます特別な存在になっていた。
『お嬢様の幸せが、わたくしの幸せです』
時々言うそんな恥ずかしい言葉も、本心なのだと思っていた。
だから今でも信じられないのだ。父の会社の機密情報をライバル企業に売り、我が家を没落させたのが、間違いなく新田なのだという事実を。
『綾乃お嬢様。貴女はわたくしの元で、これからも変わらず過ごして頂きます』
丁寧で、こちらの機嫌を伺うような使用人らしい口調なのに、何故か有無を言わせぬ気迫があった。
それがあまりにも恐ろしくて、拒否するなんて選択肢があるはずもなかった。
◇
今私がいる場所は、神宮寺家の私の部屋だった場所だ。
父が手放した家を買い取った新田は、私と再会するまでの間に部屋の中を大掛かりに作り替えたようだった。
家具や内装は私の部屋だったときとほぼ同じ雰囲気なのだが、風呂場やお手洗いが増築され、この部屋だけで生活できる環境が整えられている。
そして以前は内側からも自由に開け閉めできた扉は、両側とも鍵がないと開けられないタイプに取り換えてあった。部屋にいくつか窓があるものの、そこには以前はなかった格子が設置されていて、間違っても外に出られないようになっている。
さらに部屋はインターネットが繋がらないよう細工されており、私は外と繋がりを完全に遮断されてしまっていた。
一週間前、恐怖心から新田の手を取ってしまって以来、ずっとこの部屋で監禁されているような状態だ。
「お待たせいたしましたお嬢様。ゆっくりお召し上がりください」
食事を運んできた彼は、静かに微笑みを浮かべながら私を見る。思い切り睨みつけてみても全く動じる様子はない。
私としても、空腹を覚えている以上食べないわけにもいかないので、バターの芳醇な香りがするフレンチトーストを、用意されたナイフでゆっくり切り分け、口に運ぶ。
「……こんな味だったかしら、フレンチトーストって」
「お口に合いませんでしたか?」
ふとした私の言葉に、不安そうな声が返される。声や仕草から私の気持ちを敏感に読み取ろうとするのは、彼が本当の執事だったときからの癖だ。
私は新田の問いかけには答えず、無理やり残りのフレンチトーストを口に詰め込む。
フレンチトーストもミルクティーも、まるで味が感じられない。
「新田。お願いだから外に出して」
これもこの一週間、何度も何度も口にした言葉だ。
そしてこの答えも決まっている。
「なりません」
厳しく、まるで悪戯を企む子どもを咎めるかのような調子で、必ずそう言う。
「貴女には、何がなんでもわたくしのお嬢様でいていただきます。綾乃お嬢様は、何も考えなくて良いのです」
「……そう」
日に日に自分の中から感情が消えていくのがわかる。
いったい、彼が何を考えているのか。
何故父を裏切ったのか。
これから、何をするつもりなのか。
私には何一つとしてわからない。
だけど、必ず何か理由があるはずなのだ。
少しでも手がかりが欲しくて、私はじっと静かに、新田の光の無い黒い瞳を見つめた。


