世界で一番幸せな花嫁になる為の復讐
1
■
「顔を見せてみろ」
床を這う声が顎を上げさせ、張り付いた前髪を杖が掻き分ける。
「アレク、お前も情けない面を見てやれ」
伯爵はエマの美貌を確認し満足すると側へ控えた男を呼ぶ。このアレクと呼ばれた男はかつてノアと名乗り、エマの夫となるはずの男であった。
「まさか、最愛の君に裏切られるとは思わなかったよ」
屈強な兵士に両脇を拘束され、エマは身動きがとれない。唯一自由である唇で恨み言を吐けば頬を打たれる。
「最愛? お前の夫は儂だぞ? 夫の前で他の男に懸想を抱いて貰っては困る。この国で妻とは夫の所有物、生かすも殺すも自由だ」
エマの口内に血の味が広がった。
皮肉な話だが、杖をつかねば歩けない老人の花嫁となり、あらゆる尊厳を踏みにじられる未来に比べれば痛みなど感じない。
「お前の国だと男装するのが習わしらしいな?」
次は短い前髪をむんずと掴まれて、上下に揺さぶられた。
伯爵の言う通り、エマの生まれ育った国では女性は成人するまで男性として振る舞う。このような痛め付けにも耐える訓練を受け、青い瞳が伯爵とアレクをぶれずに睨む。
「伯爵、暴力は……」
「儂に指図をするのか? これは貴様が上納した女だぞ?」
出世の道具に女性を献上するなど目も当てられない下劣な行為。よもや婚約者がそんな真似に手を染めていたなんて、エマは貧血を起こす。
それでも現実逃避で意識を飛ばさぬよう更に食いしばった。
「男装(こんななり)では人前へ出せない。髪を伸ばし、淑女らしい所作を身に着けさせなければ。アレク、任せたぞ」
「はっ」
主人の命を従順に聞き、アレクが片膝をつく。
「エマよ、花嫁衣装が似合う姿となるんだよ」
伯爵は改めてエマを見下ろす。男装姿であっても華奢な身体付きは誤魔化せず、その瞳も唇も色付いて映る。
また惨状に屈する事のない気高い精神が花の如く香り、伯爵の鼻を卑しく鳴らせた。
「あぁ、その日が楽しみだ」
エマにとって呪いを吐かれたに等しい。爪先から嫌悪がよじ登ってくる。
伯爵が退出すると兵士等から解放され、彼女は床へ手をついた。
「エマ」
残ったアレクが声を掛けてくる。
「君に二度と私の名を呼ばせたくない、呼んでくれるな」
「では、なんと? 俺は貴女の教育係をしなければならないらしい。生徒に名がないと不便だろう? 呼び名はどうする?」
「……」
己の行いを恥じるでなく、まして謝罪などない。アレクは淡々と語った。
「そうか、君は私との事などもう……」
言いかけ拳を作る、エマ。そのまま勢いよく振り上げて叩き付けようとしたものの、アレクの手が遮った。
「貴女は伯爵へ取り入る大事な商品、むやみに傷をつけたくない。それで? 名はどうする?」
「商品だと?」
「あぁ、そうだ」
アレクはエマの怒りと悲しみからくる振動を握力で潰す。
今日まで自分を誰よりも丁寧に扱ってくれた人物から手荒にされ、エマは瞳を閉じる。目蓋の裏に彼と愛を育んだ記録が描かれるが、首を振って否定した。
「私の名はーーロベリア。そして君をアレクと呼ぼう」
暫し巡らせ名を新たにした後、アレクの腕を解く。まるで纏わりつく甘い過去を削ぐ仕草だ。
それから『愛したノアはもうこの世に存在しないのだ』青い瞳を激情で染める。
「ロベリアの名において、必ず君に復讐する!」
「はっ、根が優しい貴女に復讐など無理だな。地位や名誉なんか捨て、この国で女性として可憐に咲けばいいじゃないか?」
アレクはロベリアの宣言をまともに取り合わない。そればかりか肩を竦め、茶化す。
「出来るさ! 君は私をみくびっている。例えばこんな風に!」
一瞬の隙をつきロベリアはアレクの帯刀を抜くと喉へ突き付けた。
「おいおい、冗談はよせ。俺とやり合う気か?」
アレクは両手を上げ、壁際までゆっくり後退する。
「君達、男と互角に渡り合う為、私は鍛錬を欠かさなかったぞ!」
「エマ、俺が言いたいのはそういう事じゃない。血豆が爆ぜるまで剣を振るうのが幸せか? 違うだろう? 貴女には綺麗な物に囲まれ、争いなど無縁な場所で生きて欲しい。勇ましい口調も似合わない」
「その名で呼ぶなと言ったはず! あんな老いぼれに嫁ぐのが幸せとでも? 身勝手な価値観を正当化しないでくれ。君はこの私に祖国を裏切らせ、泥を被らせ、そのうえ口まで塞げと言うのか?」
アレクの後頭部は壁へぶつかり、喉に一筋の薄い亀裂が走る。刃先へ全体重を乗せれば復讐は完遂する。けれど、どうしたって胸が痛む、張り裂けそう。
ロベリアは襟元で輝く戦果と心の中で泣いているエマを手繰り寄せた。
「ほら、君に俺は斬れない」
「斬る、斬れる! 君は私を裏切った!」
何故? と問わなくとも置かれた環境がその答えである。
「二人逃げよう、駆け落ちしようと持ちかけたら同意したじゃないか? 国も誇りも友人等だって自分で捨てたんだ、俺のせいにするな!」
アレクは言葉でロベリアを跳ね返す。
「私は、私は……君が」
剣を手放し、力なく蹲る彼女に屈んで視線を合わす。
黒い瞳は真意を掴ませない形で訴える。
「祖国に戻るにしろ俺の首を土産にしないと立ち背もないだろう? 寝首を掻くなり好きにしたらいいさ」
ただし、と一旦ここで発言を切る。
「俺にも夢がある。貴女をこの国で最高の花嫁にするっていうね」
仮に彼女がこの国で最高の花嫁になるとして、その相手は目の前にいる人ではないのか?
ロベリアは顔半分を覆い、かぶりを振った。
「君の言っている意味が分からない。どうしてそうなる?」
「はは、混乱するだろうな。ひとまず祖国で叶わなかったエスコートをしようか。お姫様、どうぞ」
アレクが恭しくお辞儀をして手を差し伸べる。当然、ロベリアはそれを拒む。
「いきなり女性扱いしないでくれ」
「ーー貴女は女性だ、それはずっと変わらない。俺の中ではね」
「……」
「まぁ、いい。今からは男と女じゃない、教育係と生徒だ。宜しく頼むよ、ロベリア」
指の形をエスコートから握手へ変えるが、これもロベリアは拒絶する。
「君の夢とやらが本当に私を最高の花嫁にする事ならば、その夢は私の手により潰える。それが復讐にもなろう」
なによりエマへの慰めになる。ロベリアは言外に込めた。
「俺は貴女が不幸になるのは許さない、絶対にだ」
会話がいまいち噛み合っていない。
アレクの黒い瞳は真意を奥底に沈め、決して気取らせなかったし、ロベリアの青い瞳は閉ざした風に嘘も真実もを跳ね返す。
「エスコートが嫌でも屋敷の案内は任せてくれるかい? 別邸とはいえ、ここは広い。まず貴女の部屋へ連れて行こう」
「私に部屋が与えられるのか?」
「伯爵は君には金に糸目をつけない。おねだりしてご覧、どんな希少品でも取り揃えてくれる」
「……つまり君の首でも、か?」
地位と名誉を兼ね備えた男装令嬢、エマ。彼女は全てを捨てて将来を誓った相手と駆け落ちをしたが、それは罠だった。
祖国に戻るには汚名を返上しなければならない。男装令嬢はオリビアと名を改め、愛した男性へ復讐を誓う。
ーーこれは世界で一番幸せな花嫁にならない復讐。
同時に世界で一番幸せな花嫁になる為の復讐の物語。
「顔を見せてみろ」
床を這う声が顎を上げさせ、張り付いた前髪を杖が掻き分ける。
「アレク、お前も情けない面を見てやれ」
伯爵はエマの美貌を確認し満足すると側へ控えた男を呼ぶ。このアレクと呼ばれた男はかつてノアと名乗り、エマの夫となるはずの男であった。
「まさか、最愛の君に裏切られるとは思わなかったよ」
屈強な兵士に両脇を拘束され、エマは身動きがとれない。唯一自由である唇で恨み言を吐けば頬を打たれる。
「最愛? お前の夫は儂だぞ? 夫の前で他の男に懸想を抱いて貰っては困る。この国で妻とは夫の所有物、生かすも殺すも自由だ」
エマの口内に血の味が広がった。
皮肉な話だが、杖をつかねば歩けない老人の花嫁となり、あらゆる尊厳を踏みにじられる未来に比べれば痛みなど感じない。
「お前の国だと男装するのが習わしらしいな?」
次は短い前髪をむんずと掴まれて、上下に揺さぶられた。
伯爵の言う通り、エマの生まれ育った国では女性は成人するまで男性として振る舞う。このような痛め付けにも耐える訓練を受け、青い瞳が伯爵とアレクをぶれずに睨む。
「伯爵、暴力は……」
「儂に指図をするのか? これは貴様が上納した女だぞ?」
出世の道具に女性を献上するなど目も当てられない下劣な行為。よもや婚約者がそんな真似に手を染めていたなんて、エマは貧血を起こす。
それでも現実逃避で意識を飛ばさぬよう更に食いしばった。
「男装(こんななり)では人前へ出せない。髪を伸ばし、淑女らしい所作を身に着けさせなければ。アレク、任せたぞ」
「はっ」
主人の命を従順に聞き、アレクが片膝をつく。
「エマよ、花嫁衣装が似合う姿となるんだよ」
伯爵は改めてエマを見下ろす。男装姿であっても華奢な身体付きは誤魔化せず、その瞳も唇も色付いて映る。
また惨状に屈する事のない気高い精神が花の如く香り、伯爵の鼻を卑しく鳴らせた。
「あぁ、その日が楽しみだ」
エマにとって呪いを吐かれたに等しい。爪先から嫌悪がよじ登ってくる。
伯爵が退出すると兵士等から解放され、彼女は床へ手をついた。
「エマ」
残ったアレクが声を掛けてくる。
「君に二度と私の名を呼ばせたくない、呼んでくれるな」
「では、なんと? 俺は貴女の教育係をしなければならないらしい。生徒に名がないと不便だろう? 呼び名はどうする?」
「……」
己の行いを恥じるでなく、まして謝罪などない。アレクは淡々と語った。
「そうか、君は私との事などもう……」
言いかけ拳を作る、エマ。そのまま勢いよく振り上げて叩き付けようとしたものの、アレクの手が遮った。
「貴女は伯爵へ取り入る大事な商品、むやみに傷をつけたくない。それで? 名はどうする?」
「商品だと?」
「あぁ、そうだ」
アレクはエマの怒りと悲しみからくる振動を握力で潰す。
今日まで自分を誰よりも丁寧に扱ってくれた人物から手荒にされ、エマは瞳を閉じる。目蓋の裏に彼と愛を育んだ記録が描かれるが、首を振って否定した。
「私の名はーーロベリア。そして君をアレクと呼ぼう」
暫し巡らせ名を新たにした後、アレクの腕を解く。まるで纏わりつく甘い過去を削ぐ仕草だ。
それから『愛したノアはもうこの世に存在しないのだ』青い瞳を激情で染める。
「ロベリアの名において、必ず君に復讐する!」
「はっ、根が優しい貴女に復讐など無理だな。地位や名誉なんか捨て、この国で女性として可憐に咲けばいいじゃないか?」
アレクはロベリアの宣言をまともに取り合わない。そればかりか肩を竦め、茶化す。
「出来るさ! 君は私をみくびっている。例えばこんな風に!」
一瞬の隙をつきロベリアはアレクの帯刀を抜くと喉へ突き付けた。
「おいおい、冗談はよせ。俺とやり合う気か?」
アレクは両手を上げ、壁際までゆっくり後退する。
「君達、男と互角に渡り合う為、私は鍛錬を欠かさなかったぞ!」
「エマ、俺が言いたいのはそういう事じゃない。血豆が爆ぜるまで剣を振るうのが幸せか? 違うだろう? 貴女には綺麗な物に囲まれ、争いなど無縁な場所で生きて欲しい。勇ましい口調も似合わない」
「その名で呼ぶなと言ったはず! あんな老いぼれに嫁ぐのが幸せとでも? 身勝手な価値観を正当化しないでくれ。君はこの私に祖国を裏切らせ、泥を被らせ、そのうえ口まで塞げと言うのか?」
アレクの後頭部は壁へぶつかり、喉に一筋の薄い亀裂が走る。刃先へ全体重を乗せれば復讐は完遂する。けれど、どうしたって胸が痛む、張り裂けそう。
ロベリアは襟元で輝く戦果と心の中で泣いているエマを手繰り寄せた。
「ほら、君に俺は斬れない」
「斬る、斬れる! 君は私を裏切った!」
何故? と問わなくとも置かれた環境がその答えである。
「二人逃げよう、駆け落ちしようと持ちかけたら同意したじゃないか? 国も誇りも友人等だって自分で捨てたんだ、俺のせいにするな!」
アレクは言葉でロベリアを跳ね返す。
「私は、私は……君が」
剣を手放し、力なく蹲る彼女に屈んで視線を合わす。
黒い瞳は真意を掴ませない形で訴える。
「祖国に戻るにしろ俺の首を土産にしないと立ち背もないだろう? 寝首を掻くなり好きにしたらいいさ」
ただし、と一旦ここで発言を切る。
「俺にも夢がある。貴女をこの国で最高の花嫁にするっていうね」
仮に彼女がこの国で最高の花嫁になるとして、その相手は目の前にいる人ではないのか?
ロベリアは顔半分を覆い、かぶりを振った。
「君の言っている意味が分からない。どうしてそうなる?」
「はは、混乱するだろうな。ひとまず祖国で叶わなかったエスコートをしようか。お姫様、どうぞ」
アレクが恭しくお辞儀をして手を差し伸べる。当然、ロベリアはそれを拒む。
「いきなり女性扱いしないでくれ」
「ーー貴女は女性だ、それはずっと変わらない。俺の中ではね」
「……」
「まぁ、いい。今からは男と女じゃない、教育係と生徒だ。宜しく頼むよ、ロベリア」
指の形をエスコートから握手へ変えるが、これもロベリアは拒絶する。
「君の夢とやらが本当に私を最高の花嫁にする事ならば、その夢は私の手により潰える。それが復讐にもなろう」
なによりエマへの慰めになる。ロベリアは言外に込めた。
「俺は貴女が不幸になるのは許さない、絶対にだ」
会話がいまいち噛み合っていない。
アレクの黒い瞳は真意を奥底に沈め、決して気取らせなかったし、ロベリアの青い瞳は閉ざした風に嘘も真実もを跳ね返す。
「エスコートが嫌でも屋敷の案内は任せてくれるかい? 別邸とはいえ、ここは広い。まず貴女の部屋へ連れて行こう」
「私に部屋が与えられるのか?」
「伯爵は君には金に糸目をつけない。おねだりしてご覧、どんな希少品でも取り揃えてくれる」
「……つまり君の首でも、か?」
地位と名誉を兼ね備えた男装令嬢、エマ。彼女は全てを捨てて将来を誓った相手と駆け落ちをしたが、それは罠だった。
祖国に戻るには汚名を返上しなければならない。男装令嬢はオリビアと名を改め、愛した男性へ復讐を誓う。
ーーこれは世界で一番幸せな花嫁にならない復讐。
同時に世界で一番幸せな花嫁になる為の復讐の物語。
