弟、お試し彼氏になる。
カチャリと金属音がして、我に返った。
言われた意味が理解できず、一瞬ぼうっとしていたらしい。
「いいの? その場の勢いで連れ込んだら、後悔するかもよ。そこで彼女が断れば、アウトかもしれないし」
「アウト……? 」
相当苛ついたのだろう。
悠が少し乱暴に鍵を取ったことに驚きながら、まだよく分かっていない私は男の言葉を復唱するしかできない。
「そ。ゲーム敗退。ドロップアウト……だったりして。だって、個室でお話ししてダメだったって、結構致命的じゃない? まあ、彼にお話しする気があればだけど」
「し、失礼なこと言わないで。大体、そんなルールがあるかどうかなんて、分からな……」
あまりに怒っていると、悠は無言になる。
そういえば、両親が再婚してすぐ、私がからかわれているのを助けてくれた時もそうだった。
そうして、どこを見ているのか分からない瞳をして、それから――……。
「……っ、はる……」
思わず悠の左腕を抱き締めたけど、間に合わない。
空いていた右手が、相手の顔面にあっという間に近づいて。
「やるよ。心配なんだろ? 自分があぶれないか。俺はもう一つの方使うから。もちろん、彼女がよければ、だけど」
そう言って、さっきまでとは全然ちがう優しい目で、抱きしめたままでいる私の腕あたりに視線を落とした。
「どうしたい? もう少しここにいる? 嫌なら、外に出てもいいよ。それとも、別の相手探しちゃう……? 」
「……そんなわけないじゃない」
まだ、ドキドキしてる。
悟られないように気をつけるとぶっきらぼうになってしまったけど、悠の目はますます甘くなっていく。
「じゃあ……」
「鍵、使おう。……ここは、嫌」
『じゃあ、出ようか』
きっと、そう言ってくれようとしたんだと思う。
それに被せたのは、勇気でも無鉄砲でも世間知らずでもない。
「春さん」から「悠」に移りゆく、同化していく過程を私が勝手に逃したくなかったから。
「……おいで」
後ろで吐かれた悪態よりも、その小さな低音の方が耳に残ってくれる。
私は、ぴったりと悠の腕にくっついたままだったのに。
鍵を持ったまま、もう片方の手を差し出してくれたのは、用意された選択肢を分かりやすく見せてくれたんだろう。
もちろん、分かったうえで私はこの手を取るんだ。
「……絢……。ありがとう」
軽々しく考えてるんじゃない。
ワンナイトなんて、そんなつもりまったくない。
「ううん。私が、あなたといたかっただけ」
悠に対してはもちろん、あまり声に出しては言わない代名詞を敢えて使ったのは。
「……嬉しいよ。ねぇ、これってさすがにもう、連絡先聞いてもいいのかな。本名……名乗ってもいいのかな」
悪戯っぽく悠は笑ったけど、目元は少し泣きそうなくらいくしゃっとしていて切ない。
「ダメだったら、退会すればいいよ。私たち……」
――私たちはいつだって、いくらだって次に進める。私たちの意思で。
「そう、だよな。……うん。とりあえず……行こうか。ゆっくり二人だけで話そう……? 」
鍵に記された部屋番号を確認して、外に出る。
エレベーターの前まで来て、悠はもう一度確認するように私を見たけれど、私はただ真っ直ぐその方向を見つめていた。
迷ってなんかない。
やめておけばよかったなんて、思わない自信がある。
エレベーターの中に入って、ドアが閉まる直前、悠の唇が私の耳に寄せられて。
「……何度お礼言っても、全然足りない。本当にありがと……大好きだよ」
そう、囁かれた。