弟、お試し彼氏になる。
それから、少し経った休日。
急遽悠が仕事になったというので、久しぶりに手持ち無沙汰だ。
とはいえ。
(……彼の生活圏内でぶらぶらしてるって、私大丈夫かな……)
やばい。
もしかしなくても私、めちゃくちゃ怖い人だ。
最近は、この辺りで一緒に過ごすことが増えた。
悠のマンションは、私のところとは少し離れたところにある。つまり、両親の家とも遠い。
(……気を遣ってくれたんだろうな)
ここなら、両親とも友人とも、私の会社の人ともばったり出くわす可能性が低い。
悠自身が居心地悪かったのもあるかもしれないけど、大半は私の為だ。
だから、とは言ってもですよ。
(彼氏の仕事中に、圏内かもしれないところでカフェで時間潰してるって……あ、文字にして考えると最低だし完全にホラーだ)
絶対叶わないと思っていた人と付き合えたからって、頭イッてる。
よかった、まだ正気に戻れて。
(出よう……)
それにしても、この辺りはおしゃれなお店が多い。
さっきのカフェも、私が勝手にソワソワしているだけで、落ち着いた雰囲気で素敵だった。
近くに、大企業っぽいオフィスビルが多いからかな。
ほら、あの建物とか――……。
「森澤さん……! 」
可愛い声に思わず振り向いたのは、呼ばれた本人じゃなくて私だった。
(……っ……! )
「これ、頼まれていた書類です。今から行かれるんですよね」
「そうだけど。頼んだの、僕じゃないですよ。主任に直接渡してください。もうそろそろ、来ると思うんで」
別人かもと思うくらい、冷たい声だった。
悠の顔と、呼ばれた苗字で彼でしかあり得ないって見れば分かるのに。
本当にあれは悠なのかなって脳が判断できないくらい声色も低く抑揚もなくて、表情もピクリともしなかった。
『約束』
――私のせいだ。
私が、あんなこと言ったから。
(……馬鹿……)
そうじゃなかったら、悠があんな態度取るわけない。
顔が綺麗だから、その無表情はいっそう何の感情もないようで余計に怖くて。
いつもゆっくり話してくれて、優しくて。
ころころ表情が変わる悠が、あんなふうになるわけない――……。
「……絢? 」
しまった。
自分の記憶と目から入ってくる情報の差に対応できなくて、呆然と立ち尽くしているのを見つかってしまった。
「え、本当に? どうしたの、こんなところで」
「さ、散歩してたらまさか、あの、ごめ……か、帰る」
(散歩って……ストーカーの言い訳にもならない。もうやだ……)
「何言ってるの。ダメだよ。せっかく会えたのに」
ふざけた言い訳も大して気にならなかったのか、くるりと背中を向けて逃げようとするのをやんわり、でもしっかりと引き留められてしまった。
「もしかして、うちに寄ってくれた? 好きに寛いでていいからね。うわ、やった。今日、早く帰らないと。そしたら絢、まだいてくれる? 俺、絶対定時で帰るよ。いや、早退しようかな。いっそ午後休……あ、今から外回りだった。最悪……」
一気に喋り切って自己完結した後、人目も憚らず、しかも会社の真ん前で抱きしめてくる。
「ちょうど、絢が不足してたところだったんだ。補給、させてくれてありがとう。助かっちゃった」
こんなところで、一体何やってるのかとか。
至極当然の、世間一般的に気持ち悪いだろう疑問は完全にスルーしてくれて、まさかのお礼を言われて頭を撫でられるという謎の事態が発生している。
それも、少し離れたところにいる、悔しそうに歪んだ顔が見える状態で。
「安心して。何もさせないよ。……誰にもね」
耳元で新たな約束をされ、私がゾクリとしたのが伝染したのだろうか。
ううん、そんなはずないけど、でも、
事実として、彼女はビクッとして走り去ってしまった。