弟、お試し彼氏になる。
「ただいま」
言われたとおり部屋で待っていると、思ったより随分早く悠が帰ってきた。
「鍵、渡しといてよかった。まさか、絢から来てくれるなんて……俺、午後から本当幸せだった」
「……お、大袈裟」
スーツ姿のまま後ろから抱き寄せられて、余計にドキドキしてしまう。
「そんなことないよ。仕事になって、テンションガタ落ちだったところの急浮上だもん。できるならずーっとこうしてたいっていうか、こうできる時間を増やす為に生きてるようなもんだから」
(そっちの方が、かなりのオーバーだ。でも……)
悠は本気で言ってるんだって、何となく察した。
「……そ、それにしても、めちゃくちゃ大手で働いてるんだね。すごいビルだなってぼんやり見てたら悠が出てきたから、びっくりしたよ」
本当は女性の呼び掛けで気づいたんだけど、そこにはもう触れない方がいい気がした。
「ああ、うん。一応……っていうか、そうだね。……俺、弟だったからさ。他の男に比べて、それだけでものすごく遅れを取ってるでしょう。絢がそれだけで判断するとは思わないけど、少しでも条件はいい方がいいかなって……あ、そんな顔しないで」
そんなことまで、私の為に努力したの。
「何て言うのかな。高キャリアっていうか、そんなものは俺自身にとってもマイナスにはならないから。絢の為っていうより、俺が絢といる為の努力だから。絢が気にすることは何もないんだ」
あの日、告白されてから。
一度も、何も言われたことはなかった。
会話がなくなったわけじゃない。
無視されたわけでもない。
ただ、本当に弟みたいに。
べったりでも不仲でもなく、普通の年頃の姉弟みたいだった。
「……ありがとう」
「そんな準備させてごめん」は言えなかった。
だって、私には想像できないほどの努力をしたんだろうから。
それを無にするようなことは、とても言えなくて。
「でも、もう悠の好きに行動していいんだからね。それ以上格好よ……なられると、側にいづらくなる……今もだけど」
「え、どうして? 絢は可愛いんだから、牽制は必要だよ」
「だ、だから、それが盛大に何か違うの……! ……と、とにかく、ごはん作っといたから食べて……」
どうして、そこでびっくりするんだろう。
どうして、そんなことでそんなに嬉しそうにするの。
「嬉しい。……でも、あの。絢もだよね? 」
「え? 」
後半、悠の声が尻すぼみになって、無意識に振り向いて聞き返したけれど。
「……帰る、って言わないよね。まだ……」
――まだ、一緒にいたい。
私が、見上げてるのに。
悠の黒目に上目遣いに媚びるように見つめられて、何も声にならなかった。