弟、お試し彼氏になる。
「……はは……」
乾いた笑い声がようやく出てきたのは、家を出た後、自分のマンションが見えてからのことだった。
そういえば、悠が二人は円満な別れ方だったって言ってたっけ。
そもそも、二人は別れたのかな。
離婚と別れは、イコールじゃないってことなのかな。
いくら考えても、両親の関係は理解できない。
それなら、私たちのことだって、そっとしておいてくれたらいいのに。
(悠に会いたい)
でも、ダメだ。
自分の顔は見えなくても、今の私はとても普通とは言えないのは分かる。
こんなに動揺している私を見て、悠が何も気づかないわけがない。
悠の顔を見た瞬間、泣いてしまうかもしれない。
そんなの、絶対に嫌だった。
でも――……。
(……でも、悠に会って、抱きしめられたら、きっと)
――きっと、安心する。
何の解決にもならなくても、お父さんに言われたことの何一つ否定できなくても、それでもきっと私は心から安心できる。
「……そっか」
お父さんが、まるっきり嘘を言ってるとも思えない。
少なくとも、そう信じているのだろう。
何より、お父さんだって悠のことを愛しているし大切に思ってる。
だからこそ、悠にとっては好きな人と結ばれることは「喜ばしい」。たとえ相手が、元・姉だったって。
(そうだとしても、私は……)
私は、悠と一緒にいると安心できるのだ。
弟として出逢う前に、本当は既に顔を合わせていたから何だと言うんだろう。
本当にそうだったとして、どうやったら親同士を結婚させられるのか。
ううん、それができたとして、結局惹かれ合ったのはそっちだ――……。
(……最低)
両親が、じゃない。
悠のわけもない。
悠といたいがゆえに、文句を言いたいだけの自分だ。
「……はぁ」
エレベーターで部屋まで辿り着くのすら、ものすごく長くかかった気がする。
実家に寄っただけなのに、ものすごい疲労感だった。
ぺたんと座り込んで、低いテーブルに突っ伏す。
(……悠に、何て言おう)
遅くとも、夜には連絡があるはずだ。
その時、どう返していいのか分からない。
ずっと黙ってていいことでもない。
考えることすら勇気が出なくて、私は一切の思考を手放した。
・・・
夢を見ていた。
うつらうつらしていると自覚してから、私はすぐにそう結論づけた。
高熱を出して病院にいる夢なんて、あんな話を聞いたせいに違いない。
少し離れたところの大きな病院にいるということは、この日は休日だったのだろう。
「これで熱が引かなれければ、かかりつけの病院へ」という説明を冷めた目で見つめながら、意識だけ大人の私は別のところへと場面を移した。
待合室だ。
母がいないのを見るに、会計を済ませているのかもしれない。
更に視線を彷徨わせ――止まる。
『……あ……』
男の子がいる。
自分と同じ年頃の男の子。
別に珍しいことでもないけど、私は目を奪われた。
なぜって、その子はとても上手に絵を描いていたから。
『すごい……』
もっと近くで見たい。
熱からのハイテンションのせいか、私は大胆にも見知らぬ男の子の隣に座り「すごいね」と声を掛けていた。
『……別に、すごくないよ。偉くもない』
偉いと言った覚えはなかったけれど、男の子はひどく顔を歪ませた。
触れてはいけないことだったのだ。
今の私は瞬時に察したけれど、子どもの私は無遠慮だった。
『どうして? すごいよ。私にはそんな絵、描けない。すごいなぁ……』
ただただ感心する私に、彼――悠は、キョトンとして言った。
『……病気なのに、頑張って偉いって言わないんだ。変な子』
『変な子って……自分の方が年下みたいなのに。っていうか、絵が上手なのに、病院関係ある? 』
(……ああ、そっか。だから……)
――絢より、大人になってたい。
ははっという空笑いは、聞き覚えがあった。
これは、悠だ。
この時から既に、私は悠に頑張らせてしまっていたんだ。
きっと、悠にとってそれは一番嫌なことだったのに。
幼稚で無知な失言を後悔して、夢の中でも目を瞑るしかできなかった。