弟、お試し彼氏になる。
(……うっ、遅くなった……)
会社のエレベーターで一階まで降りるのをどれだけ急いだって、そんなに変わらない。
前なら諦めてのんびり行くところだけど、今日は違った。
(悠、心配してるだろうな)
たとえ一分でも早く、下りなければ。
悠が待ち切れずに乗り込んでくる――ことは、さすがにないと思うけど。
『えー、お迎え行きたい。ちょっとでも早く、絢に会いたいもん』
『……や、遠いから……。せっかくの振休、ゆっくりしてていいのに』
ちゃんと帰るよって、よく分からないことを言ってはみたけど、今度は別の問題が悠のなかで発生したらしい。
『ダメだよ。夜道を絢が一人で歩くなんて……駅までも危ないし、電車降りてからも危ない。何なら、駅構内も危険かも』
という、もっと謎の主張を始めてしまった。
結局、私が折れて、近くで待ち合わせをしたのが昨日の夜。
(……何だか分からないけど、嫌な予感がする。一刻も早く……)
「あっ、すみません。ちょっと待って……! 」
速攻、エレベーター内の閉ボタンを押すと、すんでのところで、そんな声が聞こえた。
ほんの一瞬迷ったけど、聞こえなかったことにするなんて、それは人としてダメだろう。
「あ、お疲れ様です」
「お疲れ様です。あの、ほんとーにすみません!! 俺のせいで、船木さんまで残業になっちゃって」
新入社員の子――という言い方も失礼かな。
でも、これだけ年が離れていると、どうしてもそんな感じになる。
「いえ、全然。そのうち慣れますよ」
「だといいんですけど……でも、ほんと、ありがとうございます。同期の奴は、指導担当が鬼で。見てて、俺、すごく幸運だなって」
「言いすぎだよ」
対人スキルも高そう。
一階に着いて、先にエレベーターから出してくれるのも何か変な感じ。
おじさんが乗ってくると、頑なに奥に陣取るくせに、一番に下りちゃうもんな。
仕事はまあ、最初はそんなもんだ。
私だって上手くいかないことだらけだったし、今でもそんなこともある。
(……って、のんびりしてる場合じゃない)
「じゃ、お疲れ様! 」
話してて、スマホ見るの忘れた。
もしかしたら、メッセージ来てるかも。
「あっ、船木さん……」
自動ドアが開いたタイミングで駆け出そうとしたところを、再び呼び止められた。
「あの、今度……」
「……あ。お疲れ、絢」
「ごめん、急いでて」そう言おうと振り向いたその時、今度は前からも声を掛けられる。
「悠……」
「ごめん、勝手に。ちょっと早く着いちゃって。この辺かなって」
「ううん。連絡できなくてごめん。結構待たせたよね
」
別に、変なことでも悪いことでもない。
就業後、ギリギリだろうとここは会社の外だ。
彼氏と会ったって、それを見られたからって何だって言うの。
「仕事中なんだから、スマホ見れなくて当たり前だよ。俺が、早く会いたくて来ちゃっただけ。家で会えるのに、待てなくてごめん」
(……気のせい、だよね)
この短い会話で、私に「彼氏がいて、しかもほぼ同棲しているようなもの」って誰も必要としない情報を盛り込んだ、なんて。
「……って、ごめん。人前だったね」
――つまり、私は真っ赤になってる、とか。
考えすぎだ。
だって、悠が話しかけているのは私。
そんな情報を、一体誰に植え付けようっていうんだろう。
悠の目は、私以外一切見ていないのに。
(……考え、すぎ)
悠の瞳には、本当に私しか映ってないかもしれない、なんて。