弟、お試し彼氏になる。
(……ほんと、何だったんだろう……)
あれから、悠は普段どおりだった。
いや、普段から激甘だから、それもそうかもしれない。
でも、特に新人くんのことを聞かれたりもしなかったし、変なヤキモチめいたことも言われなかった。
もちろん、新人くんは次の朝も普通に接してくれた。
彼にとって、私はただの先輩社員なのだから当たり前だ。
(ううん。最初から何でもなかったんだ)
本当に、ただの考えすぎ。
今日は、久しぶりに母と二人きりでランチなんかするから、変に緊張してるのかも。
お父さんとやり取りは記憶に新しいし、それで関係ないことまで不安になってるだけ。
「ねぇ、絢。悠くんとはどう? 」
「どうって……上手くいってるよ」
無言になっているのを勘違いしたのか、母がわざとらしくコーヒーカップを持ちながら催促してきた。
悠との関係は、これ以上ないくらい良好だ。
弟だった頃の記憶がもっと邪魔をするのかと思っていたけど、始まりが「春さん」だったからか、わりと最初から再会した悠は大人の男性でしかなかった。
ちょっと信じられないほど、「絢」が無条件に「可愛い」になる謎な溺愛を除いて、私達は普通のカップル……だと思う。
「そう、よかった。心配してたのよ。ほら、最近何かと物騒じゃない? 」
「え? ああ、まあ、そうかもね」
てっきり、悠とのことを根掘り葉掘り聞かれるものだと思っていたから拍子抜けだ。
お母さんは昔から話の脈略がなく、すぐ別の話へと飛ぶからと、適当に返事をしたのがまずかったのかもしれない。
「もう、絢ったら危機感ないんだから。ついこの前も、女の子が狙われた事件があったでしょう。心配してたのよ」
「なに、突然……。そりゃ、まったく怖くないわけじゃないけど、残業になれば仕方ないし。そんなのみんなそうだし、今までもまったく事件がなかったわけじゃないのに」
そんな話、今改まってすること?
身構えた時には、既に遅かった。
「そうかもしれないけど。今も、しょっちゅう悠くんのところにいるんでしょう? それならいっそのこと、一緒に暮らしたら? 」
(……なに、それ……)
そりゃ、はっきり悠とのことを反対とは言われなかったけど。
でも、間違いなく戸惑っている様子ではあった。
お父さんが心配してくれていて、どっちについていいのか悩んでるんだと思ってた。
「悠くんが絢といてくれたら、ママも安心。昔も、絢のこと気遣ってくれてたもんね。今から思えば、あれも恋愛感情からきてたのかしら。悠くん、もともと格好よかったけど、すっかり大人になっちゃって」
ペラペラと喋る母を前に、強烈な違和感を感じて話の内容がそれ以上頭に入ってこない。
別に悠と暮らすことが嫌なんじゃないのに、この絶望にも似た感覚はどこから来るのかとぼんやりと探っているうちに気づく。
(……今、ママって言ったな)
お母さんが自分をママと呼ぶのは、怒ってるか信用していないか。
――何か、抱えている時。
それでも、そう勧めるってことは悠に悪い印象は然程ないんだろう。
もちろん、それは正しい。
悠は優しくて格好よくて、こんなに私を大切にしてくれる彼氏だ。
それなのにどうして、こんなにも諦めにも似た感情に支配されて止まらないんだろうか。
そして困ったことに――幸せなことに、私はけしてそれが嫌ではなかった。
私は、悠が好きだ。
悠も、私のことを誰よりも想ってくれている。
その事実は永遠に消えそうにもなく、それならどうしたいかなんて決まっている。