弟、お試し彼氏になる。
悠と暮らすのが嫌とか、もちろんそんなことはない。
一緒にいる時間が増えるのは嬉しいし、それが甘いものなら尚更だ。
でも、実際問題として通勤が不便になる。
何を吹き込まれたのか知らないけど、ちょっと残業したくらいで母親に心配されるのも、正直めんどくさい。
(……何を吹き込んだって……)
「誰に」の部分は、気にならないの。
そんなの分かりきってるから、考えることもないのか。
特定したくなくて、考えたくないのか。
いろいろ悩むことはあるはずなのに、実際問題なんて考え出す私はどうかしてるんだろうか。
(……あー、やめやめ)
私は、悠が好きだ。
その悠は溺愛をやめないし、二人でいる為ならちょっとやそっとの障害はすべて片付ける。
もしかしたら、「残業危ない問題」も、この前のことが関係してるのかもしれない――やっぱり、これ以上考えたくない。
悠の策略がいつから始まってどこまで繋がってるかなんて、少なくとも今は知りたくなかった。
いつかは知らなくちゃいけないのだとしても、それがたとえ早い方がいいのだとしても。
(……なんか、無になりたい)
母と別れてからも、まっすぐに帰宅する気分にはなれなかった。
悠は今日も仕事だし、ずっと一緒にいるようで一人の時間も多いから、束縛されている感じは薄い。
それでも今日は、このまま悠と話すのは少し怖かった。
何か、気分転換になることをしよう。
(……って、何だろう)
ふと悠から離れると、これまでどうやって気持ちを切り替えていたのか思い出せない。
映画や動画を見たり、本を読んだり、ふらりとカフェに行ったり、家で呑んだり。
どれもその時間は空虚さを忘れさせてくれたけど、根本的な解決には至らなかった。
(無になりたいっていうか、無、なんだな)
私こそ、空っぽだ。
やりがいのある仕事とか夢中になれる趣味なんて、出逢えた人の方が少ないんだ、きっと。
何度も言い聞かせたそれは、繰り返すたびに納得いかなくなってくる。
(悠の絵、綺麗だったな……)
絵を描くこと自体に、それほどの拘りはないって言ってたけど、忙しい時間を割いてでも描くのだから、悠にとってリラックスや気分転換の手段なんだろう。
仕事にしてしまうと、楽しいばかりではいられなくなる確率は上がる。どちらがいいとか、悪いとかじゃやい。
私にも、昔は何かあった気がするな。
どれも悠みたいには上達しなかったけど、お菓子屋さんになりたいとか洋服を作るんだとか言って、まずは道具を揃えてもらうことから始まり、どれも続かなくて母に叱られた。
「……あ……! 」
今、何かが頭の中を過ったような。
そうだ、なんでお菓子だったんだっけ。
どうして、洋服なんて最難関から入ろうとしたんだったっけ。
『あのね、ハルくんがね……だから、私……』
(お父さん、料理下手だったな……)
再婚したばかりの時、まだ二人に馴染めないでいる私を見て、よくキッキンに立ってた。
どれも生焼けか黒焦げで、悠が「いきなり、難しいとこいくから」って呆れて。
それが何だかおかしくて笑っちゃったから、お父さんは翌週も何だかよく分からないものを作ってくれた。
『なんでご褒美がハンバーガーなのって。喜ぶと思ってるからじゃない? うちの父親、壊滅的に料理下手なんだ』
さすがに、そこで「お母さんはいないの? 」なんて聞くほど、私は子どもでも鈍くもなかった。
でも、今と同じく顔には出やすくて、大人な「ハルくん」は、気にしないでと頭を撫でてくれたんだ。
『……まあ、パジャマさえあれば足りるから。他に出かけること、ほぼないし。誰にも会わないから、何柄だってどうだっていいよ。……でも、絢といると恥ずかしいね。車とか恐竜柄って、息子が何歳だか忘れてるのかも』
(……ああ)
私は、激しく後悔した。
「年下みたい」なんて、考えなしの発言をした自分が大嫌いだった。
たった二つの差だ。
女子の方が大きかったからって、何だっていうんだろう。年齢に何も関係ない。
加えてハルくんは、体調が悪いっていうのに。
『ねえ、じゃあどんな柄が好き? ハルくんは、何色だったら嫌じゃない? 』
『えっ? えっと……ごめん。よく分からないや。ずっと、気にしたことなかったから』
余裕で大人びた表情に、初めて困惑が広がる。
『ううん、いきなりでごめん。じゃあ、じゃあね……』
――考えておいて! いつかまた会ったら、またハルくんのこと知りたいから。