弟、お試し彼氏になる。
突如、あの笑顔を思い出して、今の大人になった悠と重なり、涙が込み上げてきた。
一体私は、道端でどれだけの時間、立ち尽くしていたんだろう。
涙が頰を滑り落ちたのを、どれだけ放置していたのかも分からないのに、私はしっかり買い物を終えて家に辿り着いた。
悠の家だった。
母と別れた場所から近いはずの、自分の家じゃなく。
私は、ここに帰ることを選んだ。
「……遅すぎ……」
思い出さないどころか、あの複雑な表情を見てピンともこないなんて薄情すぎる。
ここで初めて料理をした日、悠は一瞬無表情になって、次に不思議そうにして。
やがて破顔するまでに、とても時間がかかった。
そこまで喜ばなくてもと、逆に自分の腕前が置いてけぼりな気がして恥ずかしかったけど。
悠にしたら、あの約束が叶ったみたいで嬉しかったのかもしれない。
なのに、ここまできてもまるで思い出さない私に怒ることもなく、記憶を誘導することもしなかった。
そんな悠が好きだ。
どんなに病的な溺愛だとしても、それに私の方が溺れてしまうことになったとしても、悠の甘さや優しさは他の場所にもたくさんあるから。
だから、どんなに今更でも、悠のもとに帰ってきた。
「あれ、絢? ……っ、来てくれたの!? 言ってくれたら、ケーキでも買って帰ったのに……待って、何か買ってくる。何がいい? あ、それか一緒に出掛けよっか。絢が好きそうなお店、この前見つけて……っと」
悠は、どこまでも私優先だ。
それを自分の為だって悠は言うし、たとえそうなのだとしても構わない。
「……母さんに何か言われた? 今日、会うって言ってたよね。ごめんね、やっぱり一人にするべきじゃなかった」
「そうじゃないの。やっと、ちょっとだけ昔のことを思い出せて、そんなことすら忘れてる自分が嫌になっただけ」
私って、いっつもこうだな。
急に現れて、悠を驚かせてるのに喜んでもらって。
挙句、仕事終わりで疲れてる悠に癒してもらう。
「……そっか。俺、性格悪かったでしょう。好きな子と接する態度じゃなかった。好きな人なんていたことなかったし……気づいたの、絢と離れ離れになってからだったんだ」
いくら我慢しても、まだ頬は濡れていなくても。
悠にはすぐにバレて、肌が冷たくなる前に温めてくれる。
「好きだったら、優しくしなきゃ。そう頑張らなくても自然と甘くなることは昔気づけたけど、実行する前に会えなくなった。次に会えた時は俺は弟で、お姉ちゃんになった絢を甘やかすことはできなくて……思ったんだよ。“普段冷たいのに、本当は優しい” なんて、何の意味もない。好きな子を大切にできない優しさなんて、ただの言い訳だ。少なくとも俺は、絢にそんなこと二度としたくない」
悠のあの切なげな表情を見たら、きっと泣いてしまう。
だから、いつも帰ってくるなり抱きついてしまうのに、その甘い声を聞くとどうしても顔が見たくなってしまうの。
「……って、絢、甘い匂いするね」
「あ、キッキン勝手に使った……」
何の準備もせず材料だけ買って訪れたのに、悠の家には不思議なくらい道具も揃っていた。
設備面ではなく、完全に私の力不足だったけど、今度はもっとちゃんとしたものを作りたい。
「んー、キッキンって言うより、絢が甘いんだと思う」
唇で確かめなくても、間違いなく優しいのも甘いのも悠の方。
「ありがとう。コーヒー淹れる……はいはい。今日は座ってるね」
私含め誰にだって、悠は私に甘い。
それも、ずっと私の為だったんだ。