My eyes adored you
5.ひとみ
バスを降りて、ひとまず昔住んでいた場所に行ってみる。少しずつ日が傾きかけてはいるけれど、まだまだ明るいし暖かい。気持ちいい夕暮れの道をわたしはゆっくり歩いた。
ラクロア先生から聞いていたとおり、かつて住んでいた場所には違う家が建っていた。クリーム色の壁にオレンジの屋根。中からは子供の声がした。夕飯を作っているらしいいい匂いも漂ってくる。玄関の傍には、三輪車があった。
一軒隣には、記憶の中と同じ少し古い家があった。塗り替えたらしく壁は白く真新しいけれど、屋根の緑色は全体的にくすんでいる。ドアは楕円形の窓がついた茶色。下の方が少し剥げてところどころ白くなっていた。「芹沢」と表札が出ていて、心臓がびくっと跳ね上がる。中から人の気配はしなかった。
ここを離れてから、ほぼ7年。あの時大学生だった聡史くんが今どうしているのかわからない。卒業してここを離れたのか、それともそのまま大学に残ったのか。3年生の時にすでに大学院に進むと決めていたのは覚えているけれど、大学院がどんなところなのか、くわしくはわたしにはわからない。
美也子ちゃんはどうしているだろう。まだここに住んでいるのだろうか。まだ大学生かな、いや、卒業したかな。だいたいそれくらいのはずだ。
いずれにしても、留守だ。そのことにほっとして、ひとまずもと来た道を戻った。
毎週通っていた教会に寄って、荷物を置かせてもらった。ラクロア先生が横浜に移ったあとからここを管理している神父さんにあいさつして、ラクロア先生が持たせてくれたおみやげを渡す。今日はここに泊めてもらうことなっていた。
お世話になります、と頭を下げると、気を遣わずのんびりしてきなさい、と神父さんは優しく言ってくれて、部屋の鍵を渡してくれた。ラクロア先生から話は伺っているから、と。
あまり遅くならなければ特に門限はないそうだ。この辺りをゆっくり散歩してしばらくひとりになりたかったから、幸いだった。
小さなバッグに鍵とお財布と水筒、おやつのマダレナ、チェルシーを詰めて、教会を出た。
教会を出て、前住んでいた場所とは反対の方へ歩く。
以前通っていた小学校や、よく買い物をしたスーパー、本屋さん、パン屋さん、家族でよく食事に出かけた小さなレストラン。そういう見慣れた街並みのところどころには、真新しいものもいくつかある。昔はなかったおしゃれなケーキ屋さん、カフェ、アンティークショップ。懐かしさと寂しさがマーブル模様になって、なんとも言えない気分だ。
ふと、ケーキ屋さんのケースの中身に、目を奪われた。反射的に食べたくなって、バッグのお財布に手を伸ばした。でも、次の瞬間不思議な違和感に襲われた。
色とりどりの果物や流れるように絞ってある生クリーム、つややかなコーティングをされたチョコレート。1年以上目にすることのなかったそういう華やかさに、気後れしている自分がいる。修道院でお菓子作りに携わってはいるものの、お土産用の素朴なものばかりだ。間違いなく美味しいと胸を張れるけれど、いま目にしている綺麗でおしゃれなケーキとは全く別物だと、当たり前ながらに思い知る。
店内では、制服姿の女の子たちがテーブルに着いて楽しそうにケーキを食べていた。高校生くらい —— つまり、今の自分と同じくらいの女の子たちだった。おいしそう、食べたいな、とさっき頭をかすめた衝動はすぐに消えた。わたしはそのままケーキ屋さんから離れた。
その後も通り沿いのお店を見るたび、同じようなことを繰り返すことになった。目を引かれて近づいては、気後れする。そのたびに、少しずつ心がざわざわして落ち着かなくなってくる。そして、信号待ちしているときにふとウィンドウに映った自分の姿を見て、はっとした。
水色のワンピースを着て、水色のサンダルを履いたわたしが映っていた。
どこからどう見ても、ただの16歳の女の子だった。修練女でもなんでもない、ただの16歳の女の子だった。
トゥニカとベールを脱いだだけで、わたしはただの16歳の女の子に戻ってしまっていた。
シスター・ルドヴィカ、と呼ばれる日を待ち焦がれていたわたしではなかった。
神様、どうかわたしを傍においてください。わたしを呼んでください。そうやって、寝る間も惜しんで祈ったわたしではなかった。
神様の花嫁になることを、そしてやすらかで真っ白な日々を希ったわたしではなかった。
ウィンドウに映っているのは、たくさんの素敵なものに背を向け、この世界から逃げ出そうとしている16歳の女の子だった。
そのまましばらく歩き続けた。どこに向かっているのかわからないまま、あてもなく歩き続けた。
気づくと、わたしは懐かしい川辺にいた。昔の家からはそれほど遠くない川辺だ。歩き続けて、結局はぐるっと回って戻ってきてしまったようだった。古い木のベンチに座ってバッグを膝に載せた。
日が長くなってきたとはいえ、さすがに西の空はオレンジ色になっていた。風は心地よく、草のいい匂いがする。
ここで何度もピクニックをした。ある時は、お父さんとお母さんと3人で、そしてある時は、聡史くんと美也子ちゃんと3人で。おにぎりやおやつを食べて、お茶を飲んだ。
お父さんとお母さんは、ここで歌の練習をしていた。それを聞きながら、静かに流れる川を見てぼんやりするのが好きだった。
美也子ちゃんとは、一緒にお花を摘んだり、ボール遊びしたり、バドミントンをしたりした。聡史くんは、やっぱりここでも本を読んでいた。
『お兄ちゃん、やめなよ、せっかく来たのに』
『風が気持ちいいから、はかどるんだよ』
そんなやりとりを見ているのが、好きだった。聡史くんの横顔を見ているのも、もちろん大好きだった。
疲れると、このベンチに座ってうとうとした。目が覚めると、聡史くんが隣で本を読んでいる。それが嬉しくてたまらなかった。
なのに、美也子ちゃんは顔をしかめてすごく嫌そうにしていた。もちろん、半分冗談っぽく、だけれど。
『っていうか、起き抜けに見るのがお兄ちゃんの顔とか、なんの罰ゲーム?』
『ばつじゃないよ。ごほうびだもん』
『だって、お兄ちゃん? どうよ、ご褒美になった気分は?』
美也子ちゃんにそんなふうに言われて、聡史くんはなんだか困った顔をしていた。
どうしたんだろう、とじっとその顔を見ていると、聡史くんは優しくこう言ってくれたのだった。
『目が覚めたときにひとりだと、寂しいよね。誰かが傍にいると、安心する。わかるよ』
誰か、じゃなくて、聡史くんがいてくれると安心するんだよ。
本当はそう言いたかったのに、なんだか恥ずかしくてあの時は言えなかったのを覚えている。
わたしはバッグを開けて、水筒の薄紅葵のお茶を飲んだ。少しお腹がすいてきた。そろそろ夕ご飯を食べる時間だもの、無理もない。結局、おやつのマダレナは食べそこなってしまった。
水筒をしまって、チェルシーをまた一粒口に入れた。あとで夕ご飯を食べるから、これくらいにしておこう。包み紙をまた丁寧に折ってポケットにしまう。
そうだ、さっきもしまっておいたんだった、とすぐに思い出してポケットから2枚になったお花模様の包み紙を取り出した。丁寧にしわを伸ばしてから、鶴を折った。まずは一羽。久しぶりだったから、少し歪いびつになってしまった。二羽目は、気を付けながら丁寧に折る。さっきよりもピンとした綺麗な鶴になった。二つ並べて、ベンチに置いた。
川を眺めながら、さっきの自分の姿を再び思い出す。ごく当たり前の16歳のわたしを。
『行きたいところへ行っておいで。会いたい人に会っておいで。心残りがないように』
ラクロア先生の言葉を思い出す。
行きたいところには、来られた。
会いたいひとには、まだ会えていない —— けれど、ごく当たり前の16歳のわたしには会えた。
だからといって、どうすればいいのだろう。
逃げ出したくてたまらなかったこの世界が、素敵なものであふれていると気づいてしまっただなんて、言えるはずがない。
さんざんラクロア先生には言われたはずだもの。もう少し考えてみてはどうだろう、と。それなのに、すべてを振り切ってあの扉の内側で暮らすことを選んだのはわたしだ。
ルドヴィカ。あなたはあまりに若すぎる。やはり、あなたには、まだ —— セシリア院長は浅はかなわたしを見透かしていたのに、それでもなお、何も考えずにいられるあの場所にとどまろうとしたのはわたしだ。
召命がないのに、神様の花嫁になろうとしていたのはわたしだ。
不思議と涙は出てこなかった。それに、不思議と心は凪いでいた。
わたしは、わかっていた。ここに来れば、こうなるということは。
手が届かないとあきらめて、無理やり閉じ込めて遠ざけてきたことは、本当は「つまらないこと」などではなかった。
とても大切な宝物だった。わたしを支えてくれるかけがえのないものだった。まだやっぱり好きでたまらないあのひととの大事な思い出だった。
それに気づいてしまう、ここに来れば。
だから、わたしは怖くてたまらなかった。
分厚い扉の一歩外に出ると、まるで世界は違う。でも、外の世界にしかないのだ、わたしの宝物は。
この水色のワンピースは、15歳の誕生日にラクロア先生がくれた贈りものだった。かわいらしい色とシンプルなデザインが一目で気に入って、大事にしていた。でも、部屋のクローゼットにしまったまま、わたしはあの重い扉の内側へと逃げ込んだ。
『クリーニングに出しておいたから、よかったら明日はそれを着ていくといい』
横浜を出る前の晩、先生はハンガーにかけてあるこのワンピースを指さした。サンダルも、これに合うのを買っておいたから、よかったら一緒に履いていきなさい、と。
そして、翌朝、あの巾着袋を渡してくれた。
『ちゃんと食べるんだよ。お腹がすいたままでは、つまらないことを考えてしまうから』と、わたしの目をまっすぐ見て静かに微笑みながら。
きっとラクロア先生はこう言いたかったのだろう。後ろめたい、と思うのは「つまらないこと」だと。
ごく当たり前の16歳の女の子であることを罪深く思うのは、「つまらないこと」だと。
見れば、日の落ちた辺りは少しずつ暗くなり始めていた。ぼんやりと小さな光が川辺をいくつも飛んでいる。6月だもの、蛍がいてもおかしくないか、とバッグを抱えて、わたしは目を閉じた。
少しだけ休みたい。いろんなことがありすぎて、頭の芯が痺れてぼんやりしている。
草の香りに包まれて、わたしは木のベンチに横になった。