恋忘れ
「ただいま。」

思ったより雨が強くなったのはバス停に着いた時だった。
コンビニで傘を買うと反対方向になってしまうので強行突破したわけだけど案の定かなり濡れてしまった。

「おかえり、ってずぶ濡れじゃん。早く中入って。」

玄関に出迎えてくれるなり暁さんは驚いた顔をして、洗面所からタオルを持ってきてくれた。

「ありがとう。」

「寒かったでしょ。先にお風呂入っておいでよ。手、こんなに冷えてる。」

雫を拭き終わったタオルをさりげなく持って私の指先を大きな手のひらでまとめてぎゅっとしながら少しだけ怒ったような顔をしていた。

「じゃあ、そうしようかな。あの、なんか怒ってる?」

今朝とは違って今度は私がそれを聞く番だった。

「怒ってるよ。」

「え…」

まさかそんな言葉が出てくるとは思わずに驚いてその先の"何で"を飲み込んだ。

「俺迎えに行くって言ったのに、大丈夫だって言うから待ってたけど。結局雨に濡れて帰ってくるんだもんな。風邪引いたらどうすんの。」

「なんだ。そんなこと?」

予想に反した答えに肩の力が抜ける。

「そんなことじゃない。冬羽は自分のこと大事にしなさすぎ。もっと自分のこと考えなよ。」

あまりにも真剣な表情で見つめるからごめんなさいと謝ればふと微笑んで私の頭を撫でた。

その温かな愛に自然と目を閉じる。

「冬羽って本当に猫みたいだな。」

いつかのあの日の言葉を思い出した。

「またそれ?そんなに猫みたいかな。」

「うん。すぐどこか行っちゃいそうなところもね。」

その言葉に急に不安になった。
陽翔君もそんな風に思っていたことがあったんだろうか。
だとしたら私はせめてこの人にはそんなことを思わせちゃいけない。

「私はどこにも行かないよ。」

「冗談だって。ほら、風邪ひく、冬羽?」

私が急に抱き着いたので暁さんは驚いているようだった。

「本当だよ。どこにも行かない。」

ぎゅっと抱き締める腕に力を込めて暁さんの背中に顔をうずめる。

「…うん。分かった。俺も、冬羽が嫌だって言うまでずっと側にいるつもりだよ。」

「じゃあ、嫌だって言ったらいなくなるの?」

「うーん。どうかな。」

「ふふ、何それ。」

「まぁそういうこと。」

私の腕をそっと自分の腰から離して向き直ると優しく髪を撫でてくれる。

「ねぇ、冬羽。」

「ん?」

「結婚、してくれませんか。」


''結婚''

あまりにも突然の出来事に脳の処理が追い付かずフリーズしてしまう。

「へ?結婚?」

「何その顔。」

暁さんはおかしそうにクスクスと笑った。

「もう一回言うね。俺と結婚してください…っていっても返事は今すぐじゃなくていいんだけどね。いずれ冬羽と夫婦になれたらいいなって思って。」

照れくさそうに目線を外してクシャっと笑顔を見せる。
暁さんのこんな風な笑顔を見たのは初めてだった。

嬉しい、と同時にほんの少し怖かった。

「そんな難しい顔しないでよ。」

顔を上げれば寂しそうに眉を下げて私に微笑んだ。

「ご、ごめん…」

「嫌だった?」

暁さんの聞く嫌、というのは結婚のことなのはすぐに分かった。

「そんなこと!嬉しいよ。嬉しいんだけど、そういうことを考えるのはまだちょっと怖くて。」

「怖い?」

私がそんなことを言うと思わなかったのか、本当に不思議そうに私に聞いた。

「うん…上手く言えないけど、まだ今の自分に暁さんの隣にいる資格があることに自信がないっていうか。」

「自信、かぁ…」

ふ、と暁さんは笑った。

「冬羽そんなこと気にしてたの?自信も資格もいらないよ。言ったでしょ?ゆっくりでいいって。俺はどんな冬羽でも好きだよ。」

そう言ってから暁さんはこう続けた。

「まぁ結婚してくれたら嬉しいけど、急かすつもりなんてないからさ。ただ俺はそう思ってるよってこと分かっていてほしくて。」

本当は答えが欲しいはずなのにいつもそうだった。
暁さんは"待ってくれる"そんな人なんだ。

「うん。ありがとう。」

一言一言噛みしめながら真っすぐその目を見つめた。

「ほら、お風呂行っておいで。」

「あ、忘れてた。」

「普通忘れる?」

「だって急に結婚とか言うから。」

「はいはい。人のせいにしないの。」

そう言って私をお風呂場に追いやると脱衣所の扉が閉まった。

いつかは結婚するのかもしれない。
何となくそう思っていただけだった。
だけどそれは今の自分にはとても遠い未来に見えていた。

今更になってさっきのことが頭をよぎる。
陽翔君の涙が私の胸を締め付けたこと。
一瞬でも私から手を伸ばしたこと。
このままの私で暁さんの側にいていいわけないのに。

「本当、いつまで甘えてるんだろう。」

私の独り言はシャワーの音に掻き消されていった。


「お風呂あがったよ、って寝てるし。」

濡れた髪の毛をタオルで押さえながらリビングに足を踏み入れるとソファで寝息を立てている暁さんがいた。

睫毛、長いな。なんて私の手は無意識に触れる。

「猫みたいなのはどっちよ。」

私の手のひらに頬を擦り付けて相変わらず規則正しい寝息を立てているその姿にふ、と笑ってしまった。

足元に落ちているブランケットをかけなおしてあげると目を覚ましたようで名前を呼ばれた。

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

「ううん。平気。」

そう言って少し寝ぼけながらあくびをして目を擦った

「何?」

「ううん。何でもない。」

「嘘つかないのー。」

暁さんはそう言うと私をくすぐり始めた。

「ちょ、やめて。ごめんって」

「ん?聞こえないー」

「聞こえてるでしょー。ねぇ、もうやめてってば。」

私は笑いが止まらず必死でその腕をどかそうとするけど暁さんはそれを許してくれない。

次第に笑い疲れて半泣きになったところで、やっとやめてくれた。

「ねぇもう本当酷すぎ。」

「何?もう一回やる?」

「嘘です。もう嫌だ。」

「そう?残念」

「…暁さんって意外と意地悪だよね?」

「好きな子はいじめたくなるって言うでしょ。」

「今それ言う?」

やっぱり意地悪。だなんて冗談半分で睨んで見せれば暁さんは悪戯っ子みたいに笑った。

「だって冬羽可愛いんだもん。」

だもんって、可愛いのはどっちよ。

ちらっと隣を見れば私のことを本当にそう思ってるような目で見つめるから恥ずかしくて目を逸らしてしまう。

「え?照れてるの?」

自分がそうさせていると気づいていないのが恐ろしい。

「誰のせいだと。」

「俺のせい、か。」

暁さんは嬉しそうに口元を綻ばせた。

「他に誰がいるんですか。」

「それもそうか。」

この2年間で私たちはだいぶ変わったと思う。

最初に付き合い始めたころよりも壁がなくなって、こうして冗談も言い合えて。

あの頃は私が思っ記憶を失っていたこともあってかなり疑心暗鬼になっていたせいか、暁さんの優しさや本心をいつも遠ざけていた。

それでも私を諦めないでいてくれたから今があるんだとこういうふとした時に思うことがある。

「ねぇ冬羽。俺、今が一番幸せかもしれない。」

私を後ろから包んで顔を肩に乗せたまま話すから少しくすぐったい。

「今?」

「うん。冬羽と付き合えたこともだけどさ、冬羽よく笑うようになったじゃん。」

「えー、何それ。前も笑ってなかった?」

「そうじゃなくて。前はもっとこう、事務的みたいな。記憶を無くしてた間なんてそれはそれはもう…」

「まぁあの時はそうだった気もする。」

「でも今はやっと本心で笑ってくれてるんだなって思う時が増えてさ。冬羽の記憶が戻ってから俺はそのことが一番嬉しいんだ。」

穏やかな声が私の耳を優しく包んで私は途端にあたたかい気持ちになった。

「暁さんは本当いつも私のことばっかりだね。」

嬉しくて涙が出そうになるのを誤魔化して上を向いてみる。

そんなこともきっとこの人にはバレているんだろうなと思う。

「だよなぁ。俺もそう思う。でも誰よりも好きなんだから仕方ないよね。」

「またそんなこと言って。」

上を向いているのに頬を涙が伝った。

「本当に泣き虫だな。冬羽は。」

暁さんが柔らかく笑う音がした。

「泣いてない。」

「ふ、そうですか。」

「そうです。」

「嘘つき。」

暁さんはそう言うと私の方に向き直る。
咄嗟に顔を隠した私の腕をどかして"やっぱ泣いてんじゃん。"そう言って微笑むとキスをした。

私は思わずその手をギュッと握り占める。
暁さんの大きな手のひらが優しくて無意識に目は閉じられていく。

時計の秒針だけが部屋に鳴り響いていた。
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