このほど、辣腕御曹司と花嫁契約いたしまして
「最後、というのは?」
真矢は言葉選びを間違えてしまったようだ。
岳は気になったらしく、「最後の」意味を尋ねられてしまった。ごまかすこともできず、真矢は正直に話した。
「実は、今日で明都ホテルを退職いたします」
「どこか別のホテルに転職するの?」
「いいえ、家庭の事情です」
「そうか」
家庭の事情という言葉に岳はなにを想像するかと思ったが、他にいい言葉が浮かばなかった。
「まだここで働きたかったんですけど、人生って思うようにはいかないものですね。残念です」
茶化すように答えたが、真矢の中にため込んでいた気持ちが出口を求めたのか止まらなくなってきた。
「あなた自身はここを辞めたくないんですね」
「はい。ずっと明都ホテルで働けたらと思っていました」
明都ホテルの御曹司にこんな話をするなんて、おかしなことだとは思う。
でも、いやな顔ひとつせずに真剣に話を聞いてくれる人が目の前にいるのだ。
ホテルといってもこの辺りは少し暗いし、周囲に人影はない。つい真矢は心の内を話していた。
「これまでいっぱい努力したつもりだったんですけど、諦めなくちゃいけないこともあるんですよね。全部諦めた先には何があるんでしょう」
「難しいな。違う見方をすれば、新しいなにかが始まるのかもしれないが」
「新しいなにか……」
対鶴楼や、あの町に帰ることを考えると、真矢はどうしてもネガティブな思考に陥っていく。
両親が亡くなってからずっと、努力したらいつか報われると信じてきた。
でも結局、自分は諦めることしかできないんだと思い込んでいた。
目の前にいるのは、立派な家に生まれて大会社を受け継ぐことが決まっている御曹司だ。
仕事では冷酷な人だと聞いていたが、今は年齢や立場が違う真矢に丁寧に答えてくれている。
「ありがとうございます。私なんかの愚痴を聞いてくださって」
「とんでもない。君は困っている人に優しく接することができる人だ。それに先に助けてもらったのはこっちだよ」
岳の言葉には思いやりが感じられて、落ち込んでいた真矢の心は穏やかになってきた。
「東京を離れる前に、いい思い出が出来ました」
これまで恋もせずに全力で働いてきた自負はある。真矢は新しいなにかが始まるような気持ちになってきた。