このほど、辣腕御曹司と花嫁契約いたしまして
もう一度そばに立つ背の高い人を見上げたたら、まなじりからひとすじ涙がこぼれてしまった。
焦って顔を隠そうとしたが、しっかり岳に見られたらしい。
「君、」
真矢が急いで立ち去ろうとしたら岳はそのまま真矢の背に触れ、ゆっくり背をなでてくれる。
「涙をふいて。あなたには笑顔が似合うよ」
「は、はい」
そのまま岳は、その大きな手で真矢の背にそっと手を添えてくれた。
洋服越しに岳のぬくもりが伝わってくると、東京を離れたくなくて落ち込んでいた真矢の気持ちは落ち着いていった。
「もう、大丈夫です」
涙が乾くまで、ほんのわずかな時間だった。だが真矢の心に別れがたい気持ちがわき上がってくる。
それはあこがれていた都々木岳となのか、東京からなのか、真矢はわからなくなってきた。
東京を離れてしまったら、目の前の人とは二度と会うことはないだろう。
「都々木部長、お心遣いありがとうございました」
「元気で」
「失礼いたします」
それで、岳との思い出は完了したはずだった。
***
真矢は廊下の窓ガラスに映った仲居姿の自分を見て、ため息をついた。
岳に会ったことで、あの夜の事を思い出してしまった。
あの夜の出来事は、真矢の中で大切な大切な記憶だ。背をなでてくれた温かい手を思い出すだけで、優しい気持ちになれる。
明都ホテル銀座に勤めていた頃は、努力して結果を出すと周囲から認められた。達成感を得ると、また新たな企画を生みだしていけた。
あの頃の自分は、今よりもっと輝いていた気がする。
ここに戻ってから自分なりに働いてきたが、まだまだ思うようにはいかない。
(忙しい都々木部長はきっと忘れてる。私のことなんか思い出さないわ)
真矢は頬をぴしゃりと叩くと、対鶴楼の仕事に戻った。