最後の旋律を君に
「こっちに座って」

奏希がピアノの前の椅子を指差す。

律歌は少し緊張しながら、その隣に腰を下ろした。
目の前に広がるグランドピアノの鍵盤が、まるで彼女を試すかのように静かに佇んでいる。

「まずは、弾いてみて」

奏希さんの声に促され、律歌はそっと鍵盤に指を置いた。

久しぶりにピアノに触れる感覚。
心臓がわずかに高鳴るのを感じながら、そっと息を整える。

そして、奏でたのは「月の光」。

静かで切ない旋律が、広いピアノ室に広がっていく。

一音一音を確かめるように、丁寧に紡ぐ旋律。
奏希さんは腕を組みながら、じっと彼女の演奏を聴いていた。

最後の音が消えたとき、律歌はふぅっと息を吐く。

「……ブランクがあるわりには、全然悪くないね」

奏希さんが軽く笑った。

「むしろ、すごく綺麗だった。指の動きも繊細で、表現力もある」

「……本当に?」

「嘘ついてどうするのさ。僕の目は誤魔化せないよ?」

律歌は思わず頬を染める。

ピアノを褒められたのは、久しぶりだった。

「でも、ちょっと力みすぎるところがあるね。もう少し肩の力を抜いた方がいい」

奏希さんはそう言うと、ふっと笑いながら、律歌の肩にそっと手を置いた。

「ほら、力抜いて」

「え、えっと……」

急に近づかれ、心臓が跳ねる。

「大丈夫。僕がちゃんと教えてやるから」

低く優しい声に、不安が少しずつほどけていく。

(……奏希さんと一緒なら、またピアノを弾けるかもしれない)

そんな小さな希望が、律歌の胸の奥でそっと灯った。
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