最後の旋律を君に
静かな楽屋の空間で、私の鼓動だけが響いている気がした。
――ピアノを、もう一度弾く?
そんなこと、今まで考えたこともなかった。

奏希さんはまっすぐに私を見つめていた。
その瞳には、迷いがまったくない。

「……でも、私、本当に弾けるかわからないし……」

小さな声で呟くと、奏希さんはふっと微笑んだ。

「最初から完璧に弾けるわけじゃないよ」

「……」

「大事なのは、弾いてみようって思えるかどうかだよ」

(弾いてみよう……?)

今までずっと、ピアノから逃げていた。
それでも、奏希さんの演奏を聴いたとき、胸の奥が震えたのは確かだった。
もう一度、あの感覚を味わいたい――。
そんな気持ちが、ほんの少しだけ芽生えているのを感じていた。

「……少し、考えてみる」

そう答えると、奏希さんは満足そうに微笑んだ。

「うん。それでいい」

ポケットからスマホを取り出し、私に差し出す。

「じゃあ、連絡先、交換しよう」

「えっ?」

思わず声が裏返った。

「ピアノをやるかどうかは置いといて、連絡手段くらいあった方がいいでしょ?」

「そ、それは……そうだけど……」

こんなふうに男の子と連絡先を交換するのは、初めてだった。
スマホを持つ手に、少しだけ力が入る。

「ほら、スマホ出して」

奏希さんはクスッと笑いながら言う。

「……わかった」

私は戸惑いながらもスマホを取り出し、そっと奏希さんのスマホと並べた。
QRコードを読み取ると、交換完了の通知が表示される。

「これでOK」

「……うん」

画面を見ると、「高城奏希」の名前が新しく追加されていた。
それだけなのに、胸の奥がざわめく。

「じゃあ、何かあったら連絡して。もちろん、ピアノのことじゃなくても」

「……ありがとう」

「うん。じゃあ、そろそろ戻ろっか」

奏希さんが立ち上がり、私もつられるように立ち上がる。
楽屋を出ると、廊下の向こうから鈴子がこちらをじっと見ているのが見えた。

「律歌!」

駆け寄ってくる鈴子は、どこかワクワクした表情をしていた。

「話、できた?」

「……うん」

「それで、それで?」

「……連絡先、交換した」

「ええっ!? なにそれ、進展早くない!?」

鈴子が驚いたように身を乗り出してくる。

「ち、違うよ! ピアノのことで!」

「ふーん? 本当にそれだけ?」

「もう、鈴子っ!」

顔が熱くなっていくのを感じながら、私はそっぽを向いた。
スマホをぎゅっと握りしめる。

――本当に、それだけ?

心の中で、そっと自分に問いかける。
それでも、画面の中に刻まれた「高城奏希」の名前を見つめていると、
何かが、少しずつ変わっていく気がした。
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