最後の旋律を君に
楽屋の空気は静かで、心地よい余韻が漂っていた。
先ほどまで響いていた奏希さんの演奏の残響が、まだ耳の奥に残っているようだった。

「……同い年、なんだ」

気づけば、私は小さく呟いていた。

「うん。驚いた?」

奏希さんが柔らかく微笑む。

「それはもう……。だって、こんなにすごいピアノを弾く人が、まさか同じ高校生だなんて……」

本音だった。
彼の演奏は、ただ上手いというだけじゃない。
音楽の奥深くにある何か——感情そのものを音に変えているような、そんな力を持っていた。
プロのピアニストにだって引けを取らない。
それなのに、彼は私と同じ年。

「でも、君もピアノを弾いていたんだよね?」

奏希さんの問いかけに、思わず肩がこわばる。

「……昔はね」

自分で言いながら、胸が少し痛んだ。

「やめちゃったの?」

奏希さんの声は優しかった。
問い詰めるような色はなく、ただ興味を持っているような口調だった。
その優しさが、かえって心に響く。

「うん。もう弾いてない」

「どうして?」

「……向いてなかったから」

そう答えると、奏希さんは少し考えるように視線を落とした。
そして、ふっと私の方を見つめる。

「それ、本当にそう思ってる?」

「え?」

「向いてないって思ってるのは、君だけじゃない?」

「……そんなこと……」

私は言葉を詰まらせた。
今まで、誰もそんなこと言わなかった。
響歌にも、観客にも、実力の差を突きつけられて――。

(ピアノは私には向いてないんだって、ずっと思ってたのに……)

「……でも、君の目を見てると、違う気がするんだよね」

「え……?」

「君は、まだピアノが好きなんじゃない?」

心臓が跳ねる音がした。

(好き……? 私が……ピアノを……?)

確かに、奏希さんの演奏を聴いたとき、胸が熱くなった。
鍵盤の音が心を揺さぶる感覚を、久しぶりに味わった。
でも、それは――。

「……私、もう弾けないよ」

ようやく絞り出せた言葉は、それだった。

「そうかな?」

奏希さんがゆっくりと立ち上がる。

「試してみる?」

「え?」

「ピアノ、もう一度弾いてみる気はない?」

私は、息をのんだ。

「……そんな簡単に、言わないでよ」

「簡単に言ってるつもりはないよ」

奏希さんの声は静かだった。
まるで、鍵盤を優しく撫でるように。

「ただ、君が本当にピアノを嫌いになったわけじゃないなら、試してみる価値はあるんじゃないかって思っただけ」

(嫌いになったわけじゃない……?)

わからなかった。
自分の気持ちが。

もうピアノなんて必要ないと、ずっと思っていた。
だけど――本当に?

「……でも」

言いかけたその時、奏希さんが少し悪戯っぽく笑って言った。

「じゃあ、こうしようか」

「?」

「僕がピアノ、教えてあげる」

「――え?」

「君がもし、また弾いてみたいって思うなら、僕が教えるよ」

「……!」

「無理にとは言わない。でも、もしその気になったら……いつでも言って」

奏希さんの瞳はまっすぐで、嘘のない優しさに満ちていた。
気休めの言葉ではないことが、直感でわかった。

――ピアノを、もう一度?

頭の中で、何かが揺れ動く。

「……」

私は、奏希さんの言葉を、何度も心の中で反芻していた。
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