無口な脳外科医の旦那様、心の声(なぜか激甘)が漏れてます!
こんなふうに夕食を共にする機会は滅多になかったから。
克樹さんはとても綺麗な所作で食事をしている。整った顔にしみ一つない綺麗な肌。箸を扱う手は意外と大きくて節くれだっている……。
普通の夫婦なら知っていて当たり前である夫のことを私は殆ど知らない。
分かっているのは私を疎ましく思っているということだけだったのだけれど……。
じっと見ていたせいか、克樹さんが伏せていた視線を上げた。そして綺麗な眉をひそめる。どうやら不愉快な気持ちにさせてしまったみたいだ。
そう思った瞬間、戸惑いの声が聞こえてくる。
――さっきから難しい顔をしているな。食事が口に合わないのか?
機嫌が悪くて怖い顔をしたんじゃなくて、私の様子を心配しているのか。
字幕のように克樹さんの感情説明が入るからいいけれど、それがなかったら気まずく冷え冷えした食卓になっていただろうな。
私は内心ため息を吐きながら、ぼそりと言う。
「おいしい」
克樹さんが僅かに目を瞠る。
「……そうか」
――よかった、気に入ったようだな。
「うん、すごく気に入った」
――そんなに気に入ったのか? それならまた買ってこないとな。
克樹さんの優しい声が頭に入ってくる。
私はなんともいえない気持ちになった。
気を遣ってくれるのはうれしいけれど、どうして離婚を決意した今になってなの?
初めからこんなふうに歩み寄ってくれたら、私だって別れようなんて思わなかった。
だからと言って、今更やり直そうとは思えない。
だって克樹さんが努力してくれても、心の声が聞こえなかったら、私はその思いに気づけなくて今でも険悪な雰囲気のままだったと思う。
克樹さんは言葉にしてくれないし、私は彼の気持ちを察することができないのだから。
結局、この不思議な状況がなければ何も変わっていないのだ。
だから、克樹さんの優しさに流されないようにしよう。
落ち着いたらもう一度離婚について話し合って……。
「気分が悪いのか?」
今後について考えていると克樹さんの声がした。
「え?」
彼は眉間にしわを寄せてこちらを見ている。この顔は私が一番よく見かける彼の表情だ。
――さっきからずっと一点を見つめて微動だにしなかった。やはり様子がおかしいな。
かなり自分の世界に入り込んでしまっていたみたいだ。克樹さんの目にはよほど怪しく映ったらしい。
とりあえず大丈夫だと誤魔化さなくては。元気だとアピールしておかないと、また検査だと騒がれてしまうかもしれないもの。何か別の話題を……。
「ええと……あ、そう言えば克樹さんに聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「そう。克樹さんは脳外科医で物知りだから」
「ああ」
――羽菜が俺を褒めてくれるなんて……仕事については認めてくれているんだな。よかった。
克樹さんの声が頭に響いた。でも目の前の彼はつまらなそうな顔ですっと視線を落としてしまったので、声はそこで途切れてしまった。
一体どうしたのだろうかと心配になって彼の様子を窺う。すると少し耳が赤くなっているのに気が付いた。
もしかして照れてるの? 褒められたからって嬉しくなって?
……冷静沈着なエリート脳外科医が、こんなちょろくて大丈夫なのかな。
それに、なんだから私の方が居たたまれなくなってしまう。これは共感性羞恥心というものかもしれない。
しかし恥ずかしがっている場合じゃない。私は気を取り直すべく咳払いをした。克樹さんが驚いたように顔を上げる。
私を見つめる目がなぜかとても純粋に見えて、ドクンと心臓が跳ねた。
「あ、あの! 聞きたいのは、脳の病気とかで誰かの心の声が聞こえるようになることってあるかということなんだけど」
「……心の声?」
克樹さんが眉を顰める。心の声は聞こえない。きっと発言と考えていることが一致しているからだろうな。
「うん。その人が心の中で考えていることが分かってしまう現象と言うか……」
「そういった症例は聞いたことがない」
「怪我の場合は?」
「ない」
「……そう」
私はがっかりと肩を落とした。克樹さんが知らないなら、これは脳の病気ではないんだろう。
「ごめん、変なこと言ったよね。気にしないでね」
「ああ」
――やけに落胆しているがどうしたんだ? なぜ妙な質問を……ああそう言えば入院中に退屈だと言って本を読んでいたな。あれはSF小説だったのか。
克樹さんは淡々とした言動の裏で、推理を進めているようだ。あいにく私が読書していたのは、”離婚に関する法律知識“だけれど。
――物語に影響されるなんて羽菜は可愛いな。
そんな心の声と共に、克樹さんが口角を上げた。それはほんの一瞬で普通だったら見逃してしまうような反応だったけれど私ははっきりこの目で見てしまった。
――でもがっかりしているみたいだな。そうだ、今度羽菜が好きそうな小説を買ってこよう。面白い話が見つかったら、元気になるだろうから……。
私はテーブルに突っ伏したい気持ちになった。
だって克樹さんの中の私は、物語の影響を多大に受けて空想と現実の区別がつかない子供みたいになっているから。
しかもそんな私を可愛いって……ああ、恥ずかしくて今すぐここから立ち去りたい。
「羽菜? どうしたんだ?」
「……なんでもないです」
居たたまれない時間は、夕食後のお茶の時間まで続いたのだった。
克樹さんはとても綺麗な所作で食事をしている。整った顔にしみ一つない綺麗な肌。箸を扱う手は意外と大きくて節くれだっている……。
普通の夫婦なら知っていて当たり前である夫のことを私は殆ど知らない。
分かっているのは私を疎ましく思っているということだけだったのだけれど……。
じっと見ていたせいか、克樹さんが伏せていた視線を上げた。そして綺麗な眉をひそめる。どうやら不愉快な気持ちにさせてしまったみたいだ。
そう思った瞬間、戸惑いの声が聞こえてくる。
――さっきから難しい顔をしているな。食事が口に合わないのか?
機嫌が悪くて怖い顔をしたんじゃなくて、私の様子を心配しているのか。
字幕のように克樹さんの感情説明が入るからいいけれど、それがなかったら気まずく冷え冷えした食卓になっていただろうな。
私は内心ため息を吐きながら、ぼそりと言う。
「おいしい」
克樹さんが僅かに目を瞠る。
「……そうか」
――よかった、気に入ったようだな。
「うん、すごく気に入った」
――そんなに気に入ったのか? それならまた買ってこないとな。
克樹さんの優しい声が頭に入ってくる。
私はなんともいえない気持ちになった。
気を遣ってくれるのはうれしいけれど、どうして離婚を決意した今になってなの?
初めからこんなふうに歩み寄ってくれたら、私だって別れようなんて思わなかった。
だからと言って、今更やり直そうとは思えない。
だって克樹さんが努力してくれても、心の声が聞こえなかったら、私はその思いに気づけなくて今でも険悪な雰囲気のままだったと思う。
克樹さんは言葉にしてくれないし、私は彼の気持ちを察することができないのだから。
結局、この不思議な状況がなければ何も変わっていないのだ。
だから、克樹さんの優しさに流されないようにしよう。
落ち着いたらもう一度離婚について話し合って……。
「気分が悪いのか?」
今後について考えていると克樹さんの声がした。
「え?」
彼は眉間にしわを寄せてこちらを見ている。この顔は私が一番よく見かける彼の表情だ。
――さっきからずっと一点を見つめて微動だにしなかった。やはり様子がおかしいな。
かなり自分の世界に入り込んでしまっていたみたいだ。克樹さんの目にはよほど怪しく映ったらしい。
とりあえず大丈夫だと誤魔化さなくては。元気だとアピールしておかないと、また検査だと騒がれてしまうかもしれないもの。何か別の話題を……。
「ええと……あ、そう言えば克樹さんに聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「そう。克樹さんは脳外科医で物知りだから」
「ああ」
――羽菜が俺を褒めてくれるなんて……仕事については認めてくれているんだな。よかった。
克樹さんの声が頭に響いた。でも目の前の彼はつまらなそうな顔ですっと視線を落としてしまったので、声はそこで途切れてしまった。
一体どうしたのだろうかと心配になって彼の様子を窺う。すると少し耳が赤くなっているのに気が付いた。
もしかして照れてるの? 褒められたからって嬉しくなって?
……冷静沈着なエリート脳外科医が、こんなちょろくて大丈夫なのかな。
それに、なんだから私の方が居たたまれなくなってしまう。これは共感性羞恥心というものかもしれない。
しかし恥ずかしがっている場合じゃない。私は気を取り直すべく咳払いをした。克樹さんが驚いたように顔を上げる。
私を見つめる目がなぜかとても純粋に見えて、ドクンと心臓が跳ねた。
「あ、あの! 聞きたいのは、脳の病気とかで誰かの心の声が聞こえるようになることってあるかということなんだけど」
「……心の声?」
克樹さんが眉を顰める。心の声は聞こえない。きっと発言と考えていることが一致しているからだろうな。
「うん。その人が心の中で考えていることが分かってしまう現象と言うか……」
「そういった症例は聞いたことがない」
「怪我の場合は?」
「ない」
「……そう」
私はがっかりと肩を落とした。克樹さんが知らないなら、これは脳の病気ではないんだろう。
「ごめん、変なこと言ったよね。気にしないでね」
「ああ」
――やけに落胆しているがどうしたんだ? なぜ妙な質問を……ああそう言えば入院中に退屈だと言って本を読んでいたな。あれはSF小説だったのか。
克樹さんは淡々とした言動の裏で、推理を進めているようだ。あいにく私が読書していたのは、”離婚に関する法律知識“だけれど。
――物語に影響されるなんて羽菜は可愛いな。
そんな心の声と共に、克樹さんが口角を上げた。それはほんの一瞬で普通だったら見逃してしまうような反応だったけれど私ははっきりこの目で見てしまった。
――でもがっかりしているみたいだな。そうだ、今度羽菜が好きそうな小説を買ってこよう。面白い話が見つかったら、元気になるだろうから……。
私はテーブルに突っ伏したい気持ちになった。
だって克樹さんの中の私は、物語の影響を多大に受けて空想と現実の区別がつかない子供みたいになっているから。
しかもそんな私を可愛いって……ああ、恥ずかしくて今すぐここから立ち去りたい。
「羽菜? どうしたんだ?」
「……なんでもないです」
居たたまれない時間は、夕食後のお茶の時間まで続いたのだった。