無口な脳外科医の旦那様、心の声(なぜか激甘)が漏れてます!

 その後も一定の距離を保ち、夫婦と言うよりも同居人としての生活が続いていた。
 それは塑像していた以上に穏やかな時間だった。

 俺はあまり家に帰らなかったから話す機会は少なかったが、それでもときどき顔を合わすにつれて羽菜の印象が変化した。
 しとやかな深窓の令嬢だと思っていた彼女は、意外におしゃべりなところがあった。

 不規則な勤務の俺の帰宅時間はまばらなのに、いつも『克樹さん、お帰りなさい!』と明るい笑顔で迎えてくれる。
 寒いときは温かいお茶を。暑い日にはひんやりした飲み物をそっと出してくれる。彼女は俺が自室から出てくる度に朗らかに声をかけてきた。
 話の内容は近所の人と仲良くなったことなど、些細なこと。はっきり言って俺にとってどうでもいいことだ。でも不思議と煩わしいとは感じなかった。

 羽菜の話し方が押しつけがましくなく、それでいてユーモアと優しさを感じるものだからかもしれない。話の長さも絶妙でだらだらと長く続けたりはしない。そして必ず『克樹さんはどんな一日だったの?』と聞いてくる。
 俺はたいてい『これといって何もない』や『いつも通りだ』と答えていた。
 本当に報告することがなかったからだ。
 病院で患者の為に働き、疲れ果てて帰宅する。
 オペが成功すれば喜びを感じたし、患者を救えなかったときは自分の無力さを実感し打ちのめされることも有った。けれどそれを羽菜に伝える必要はない。

 彼女にまで暗い気持ちにさせる必要はないし、話すことで救われるとも思えない。
 けれど羽菜はときどき寂しそうな顔をした。口下手な俺をつまらない男だと失望していたのだろう。その顔を見るともやもやした気持ちになったが、俺は見て見ぬふりをした。

 彼女の内面に踏み込む必要はない。そんな関係じゃない。
 余計な詮索をしない方がお互いの為なのだ。両親のように諍いばかりの夫婦にならないようにするには、初めから距離を置くのがいい。
 そうやって壁をつくり同居して半年が経っても余所余所しさがある関係でいた。ところがあるとき羽菜が思いがけないことを言い出した。

『克樹さん、私も病院で働きたいと思うんだけど』
『なぜ?』
『私も加賀谷家の一員になったんだから少しでも加賀谷病院の力になれたらいいと思って。職場が一緒だったら忙しい克樹さんのフォローも出来るだろうから。駄目かな?』

 羽菜は柔らかな微笑を浮かべて返事を待っていた。俺は迷わず口を開く。

『必要ない、君は病院のことは気にせず好きに過ごしたらいい』

 病院には義兄がいる。俺の妻ということで嫌みを言われるかもしれない。羽菜が苦労することはない。

『そう……』

 羽菜はがっかりしたように肩を落としていたが、俺は義兄との接点が生まれずに済んだことにほっとしていた。
 それからしばらくは仕事が立て込んでなかなか帰宅できない日々が続いていた。


 二月下旬。酷く冷え込んだある日、俺は数年ぶりに体調を崩した。幸いオペの予定はなかったので、同僚医師に引き継ぎをして早めに帰宅して自室で横になり体を休めるつもりだった。

『克樹さん、どうしたの?』

 羽菜はまだ明るい内に帰宅した俺にひどく驚いていた。

『体調不良で早退した。部屋で休む』
『えっ! 大変……大丈夫なの?』

 羽菜は心配そうに俺に近づいてきた。

『寄るな』

 彼女に移す訳にはいかない。羽菜はびくりと体を震わせた。

『ご、ごめんなさい。辛そうだから支えようと思って』
『俺のことは気にしなくていい』

 羽菜に面倒をかけるつもりはない。

『でも……』

 まだ何か言いたそうな羽菜を置いて、俺は手早くシャワーを浴びてからベッドに横たわる。よほど疲れていたのだろう意識はすぐに遠のいていった。
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