成瀬課長はヒミツにしたい【改稿版】

初仕事の日

「まったく、私も律儀なもんだよね」

 日曜日のAM8:50。
 真理子は、あの高層マンションの前に立っていた。

「結局、のこのこ現れちゃうし……。本当に、バカがつくほどのお人好しかも」

 それもこれも、眼鏡を外した成瀬の、ギャップのある態度が原因だ。

「眼鏡がスイッチかって思うほどの、変わりようだよね……。どう考えても、成瀬課長が悪い……」

 真理子は、うんうんと一人納得しながら、受付のコンシェルジュに声をかける。
 しばらくしてからカードキーを手渡され、真理子はぶつくさ文句を言いながらもエレベーターに乗り込んだ。
 扉の前でインターホンを鳴らすと、「はーい!」という可愛らしい声とともに、乃菜が玄関を開けてくれた。


「まりこちゃん!」

 乃菜はすっかり真理子を受け入れてくれた様子で、満面の笑みを見せる。

「乃菜ちゃん。おはよう」

 真理子もつられて笑顔になった。
 真理子が遠慮がちに靴を脱いでいると、朝ご飯を作っていたのか、キッチンからフライパンを持ったままの成瀬が顔をのぞかせた。
 成瀬はカーキ色のエプロンをつけ、頭にはバンダナまで巻いている。
 横からはさらさらとした黒髪が揺れていた。

 ――イケメンのエプロン姿……。朝から刺激が強すぎなんですけど。

 眼鏡をかけない眩しすぎる成瀬の素顔に、くらくらと目眩がする。
 思わず鼻血が出そうなほど、のぼせ上った真理子を見て、成瀬が大きくため息をついた。

「おい……。いいから、早くしろ!」
「ひっ……。は、はい」

 成瀬の剣幕に、現実に引き戻された真理子は、慌てて靴を脱ぎ捨てると部屋に駆け行った。

 ダイニングテーブルの椅子に、荷物を置きながらキッチンを覗き込む。
 成瀬は慣れた手つきでスクランブルエッグをお皿に盛りつけると、バターがたっぷりと塗られた食パンと一緒に、乃菜が待つローテーブルに並べた。


「いっただっきまーす」

 乃菜は元気に声を出すと、テレビに夢中になりながら、少し遅い朝食を食べだした。

「今日は部屋の片づけが済んだら、買い物に行くからな」

 成瀬はコップに牛乳を注ぎながら、真理子に声をかける。

「買い物ですか?」

 真理子は、コップを掴む成瀬の長い指を、ぽーっと眺めながら声を出した。

「あぁ。今度、乃菜が通う園で夏祭りがあるんだ。そこで浴衣を着たいって言ってて。俺はそういうの、わからないからな。真理子に見て欲しいんだ」

 成瀬に急に呼び捨てにされて、真理子はドキッと反応してしまう。


「どうした?」
「あ、いえ……。別に……」

 成瀬はキッチンカウンターの奥から、ベージュのエプロンを真理子に手渡した。
 成瀬と色違いでお揃いのエプロンは、くすぐったくて恥ずかしい気持ちになる。
 真理子は赤くなる頬を隠すように、顔を背けてエプロンをつけた。

「そういえば、成瀬課長はどうして“とうたん”なんですか? 私てっきりお父さんって意味かと思っちゃいました」

 成瀬の、あははという笑い声が室内に響き、その声に振り返った乃菜が二人の顔を交互に見ている。

「それでお前、スーパーで逃走したってわけか」

 洗い物をしている成瀬の背中が、楽しそうに上下した。

「俺の名前が“柊馬(とうま)”だからな。成瀬柊馬(なるせとうま)! それで“とうたん”になったんだよ。真理子もここでは“柊馬”って呼んでいいからな」

 そう言いながら振り返った成瀬のほほ笑みに、真理子はまたしてもドキッと心臓が跳ね上がってしまった。
< 13 / 101 >

この作品をシェア

pagetop