成瀬課長はヒミツにしたい【改稿版】
 成瀬は外した眼鏡を机に置くと、ゆっくりと真理子に歩み寄った。
 そして真理子の左手を取り、そっと自分の手のひらにのせる。

 ――これはもう運命だ。子供がいたって構わない。私の運命の王子様は、ここにいたんだ……。

 真理子の頭の中では、もうすでにウエディングベルが大音量で鳴り響いていた。
 真理子は、はねる心臓を抑えつけるように、そっと指に力を入れようとした。
 その途端、成瀬はぐっと手に力を込め、真理子の身体を引き寄せる。
 真理子はされるがまま身をゆだね、鼻先すれすれに成瀬の顔が近づいた。
 もう今にも成瀬の唇は、真理子の唇を捕らえそうだ。

 ――あぁ、神様……。

 真理子は甘美な空気に酔いしれながら、思わず目を閉じた。
 その瞬間、成瀬の低い声が耳元をかすめる。

「これで契約成立だ」
「え……?」

 成瀬は、ぱっと手を離したかと思うと、もう真理子に背を向けている。

「契……約……?」

 はたと目を開けた真理子は、何度も瞬きをしながら成瀬の様子を目で追った。
 成瀬は、バックに流した髪をくしゃくしゃと手で崩している。
 そして、さらりと目にかかる前髪をかき上げながら、あははと声を上げて笑い出した。
 真理子は訳が分からず、その場に立ち尽くす。
 はっきりしている事と言えば、さっきまでの甘い空気感はみじんも感じないという事だ。

「だまし討ちみたいにして、悪かったな。まぁ、座れ」

 相変わらず笑ったままの成瀬は、まるで人が変わったかのような口ぶりでそう言うと、椅子に座りながら真理子を見上げた。
 真理子は力が抜けたように、すとんと腰を下ろす。

「お前の事は、前々から目をつけてたんだ」
「目……? ど、どういう事ですか……!?」
「俺を誰だと思ってる? 人事のプロだぞ」

 成瀬は得意げに顔を上に向ける。

「お前の、その正義感の強い性格と会社への忠誠心。社員に対するホスピタリティ。率先して動くフットワークの軽さ。そしてその地味……あ、いや。落ち着いた雰囲気」

 成瀬はコホンと咳ばらいをする。

「ん?」
「お前はベストなんだよ。俺のパートナーとして」
「ちょ、ちょっと待って下さい。そのパートナーってどういう……」

 真理子が言いかけた時、いつの間にかそばに来ていた女の子が声を出した。

「とうたん。おなかすいたぁ」

 成瀬は女の子の頭をゆっくりと撫でながら、真理子を振り返る。

「家政婦だよ」

 真理子はキョトンとして首を傾げた。

「カ・セ・イ・フ?」
「そう。俺は、この子の“家政夫”なんだ」

 成瀬はほほ笑みながら、女の子の肩を支え真理子に向けさせる。

「は!? か、家政婦(夫)―!?!?」

 真理子は白目をむいて、天井を仰ぐ。

 ――なんてこった……。

 どうやらこれは、とんでもないことに巻き込まれてしまったようだ。
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