成瀬課長はヒミツにしたい【改稿版】
 成瀬は電車に飛び乗ると、肩で息をしながらガラガラの車内を移動する。
 端の席に腰かけた途端、体中からどっと汗が吹きだした。
 成瀬は額の汗を拭おうとして、ふと手にステッキを握ったままだったことに気がつく。

「どれだけ必死だったんだ……」

 成瀬は滑稽な自分の姿に肩を揺らすと、上着を脱ぎネクタイを緩めた。
 大きく息を吐きながら、窓の外に目を向ける。
 日が傾きだした景色に重なるように、成瀬の姿が窓に映った。

「真理子と一緒にいる時の、自分の顔か……」

 成瀬はぽつりとつぶやくと、背もたれに頭をあずけて目を閉じる。

 『柊馬はまだ、出会ってないだけだよ』

 うつらうつらとしだした成瀬の耳に、懐かしい声が聞こえた気がした。

 ――あれは、佳菜が乃菜を産む前に、俺に言った言葉……?

 成瀬の脳裏に、もう随分と時が過ぎた、ある日の記憶が蘇った。


 その日、立ち合い出産のためのガウンを着るのに手間取る明彦を見ながら、佳菜は幸せそうに笑っていた。
 そして時折押し寄せる波に顔を歪めながら、成瀬を手招きしたのだ。

「あのね。本当に大切な人に出会ったら、どうやって笑ったらいいかなんて、考える暇もないくらい、笑顔になっちゃうんだよ」

 佳菜は成瀬の手に自分の手を重ねると、ぎゅっと力を込める。

「佳菜?」

 成瀬は佳菜が何を言わんとしているのかわからず、小さく首を傾げた。

「柊馬にも、いつか見つかるよ。その仏頂面を、笑顔に変えてくれる人が」
「おい、なんだよ。その言い方は」

 成瀬は、佳菜のまるで別れの言葉のような言い方に、不安を感じて目を逸らす。
 佳菜はそれすらも見透かしたような目で、優しくほほ笑んでいた。

「その時は、私にも見せてよね。柊馬の幸せそうな笑顔……」

 そう言った途端、佳菜は再び襲った痛みに顔を歪める。
 成瀬は、明彦に手を握られ、幸せそうな顔をしながら分娩室に移動していく佳菜の姿を、ずっと見送っていた。


「気がついてなかったのは、俺の方だ……」

 成瀬はステッキを鞄にしまい、上着を掴むと、駅で停車した電車を駆け降りた。
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