明治時代にタイムスリップとか有り得ない!!
それから月が満ちるまであっという間だった。
柚はカンテラの光とたまの案内を頼りに、池を目指して歩いていた。
足がだるくなるのを無視して、歩く。まだ着かないのかそろそろ不安になってきた時、柚の視界が晴れた。
目の前には、すっかり見慣れてしまった池。前回足を運んだ時とは違って、しんと静まり返っている。たまに目を向ける。
たまの目は真っ直ぐに柚の目を見ていた。これを逃せば次はないと訴えかけているような気がして…。
「―――柚ちゃん!!」
「!?」
ここにいるはずのない声が聞こえた。カンテラの光を声のする方へ向けると、息を切らして立っていたのは勇だった。
走って来たのだろう。呼吸を整えている。
「決めたんだね、柚ちゃん」
「勇さん…」
勇は柚の肩に手を置き、真っ直ぐに視線を合わせてきた。息が触れ合う程の距離に、たちまち胸が早鐘を打つ。
「俺は過去に、家督(かとく)を継いで生きる為に恋を諦めたことがある。私人としての自分を捨て、公人として役割を果たすことが長男のつとめと言われてきたからね」
「…っ」
昔を懐かしむような目。決して軽くはない内容とは裏腹に、彼の声音は思いのほか凪いでいる。
勇の手が、丁寧に柚の髪を撫でる。
やがて頬に触れた指先は温かく、愛おしむように肌を滑るから、胸がいっぱいになって何も言えなくなってしまった。
溢れそうな涙をこらえても、勇は柚に笑いかけていた。
勇の両腕が、ふわりと柚の体を包む。その体温にすっぽりと包まって、深く息を吸い込んで、そして離れた。
「いってらっしゃい、柚ちゃん」
「…はい」
柚はたまを抱え、池の中に入って目を閉じる。不思議と池の水はぬるま湯のように温かかった。池の深さは腰までなので溺れる心配はないだろう。
家に帰ったらご飯を食べて、お風呂に入って、宿題を終わらせて、それから、それから。
それから友達に電話をかけて、時間があれば漫画の続きを読んで。
あとは深く眠るだけ。その前に目覚まし時計をセットするのも忘れずに。
―――柚ちゃん、幸せになってな。
そんな声が耳に届いた。
忘れずに、深く、深く―――

―――目が覚めたら、自分の家にいた。
勿論、明治時代ではなく、現代にある自分の家だ。
壊れた冷房は、スイッチを入れればウィーンと音が鳴って動き出した。直ってる…。
(本当に…帰ってきちゃったんだ…)
少し信じられない。
見慣れた光景に安堵の息を漏らしながらも、ほんの少しの寂しさが胸をよぎる。
体はこっちにあるのに、心だけはあの時代に残して来てしまったような…。
長過ぎる夢を見ると、人はこんな感覚に陥るのかもしれない。パーカーのポケットに入っていたのは財布と根付と櫛。この三つしか残らなかった。
一階から母の声が聞こえる。もうすぐ夜ご飯らしい。
たまは部屋の隅に置いてあるキャットタワーで遊び始める。
リビングに足を運べば、母の「たまにご飯あげて〜。もうすぐで夕飯できるから」の言葉。
棚からキャットフードを取り出し、器に入れると、匂いと音でご飯だと察知したのか、二階からタタタとたまが駆け下り、キャットフードを頬張った。
(たま、ありがとうね)
心の声に答えるように、にゃあと、嬉しそうに鳴いた。
驚いたのは、日付が変わっていなかったこと。あの時代での一ヶ月半は、現代では数時間しか経っていなかったのだ。
すっかり元の日常に戻った後でも、柚は明治時代での生活をよく思い出す。
あの時代では夜になれば普通に現れていた死ニカエリも、現代に帰ってから視えたことはない。自分はただの普通の一般人。
足元には梅の花びらが散っていた。
春が訪れて暖かくなるまであと少し。
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