歪んだ月が愛しくて1
忍び寄る黒い影。
背後から聞こえる卑しい笑い声。
身体中に纏わり付く黒く汚いもの。
(……ああ、ダメだ)
グラグラする。
身体も、思考も。
今は何も考えられない。
ただ俺の中で誰かが悲痛な声を上げている。
もうここにはいちゃいけない。
お前の居場所はどこにもないんだと…。
「、」
押し寄せる恐怖と幻聴に耐え切れずに、俺は逃げるように理事長室を飛び出した。
「立夏っ!」
「リツ!」
後方から鋭い声が聞こえる。
すぐ後ろから追い掛けて来る気配が俺に纏わり付く黒いものに見えて、真っ白な頭のまま無我夢中で足を動かした。
エレベーターで下に降りることを諦めて幅広の階段を駆け降りたが、下に行くにつれて足が鉛のように重くなっていく感覚に襲われる。
「はっ、は…」
蓋をしたはずだった。
きつく、きつく。
誰にも開けられないように心の奥底に仕舞い込んだはずだったのに。
足元を影が舐める。
あの日のことが曖昧に脳裏に過ぎる。
『助けてよ!』
ヒュッと、息が詰まる。
かつての自分の言葉が重く圧し掛かる。
でも思い出せない。
断片的なものが俺の意思とは裏腹に勝手に頭の中に流れ込んで来るだけ。
それが余計に苦しかった。
頭がガンガンする。
一度廻り始めてしまった思考はあっさりと俺をあの日へと連れて行く。
大嫌いなあの色がちらついて吐き気までして来た。
(気持ち悪い…)
あまりの不調に立っていることが出来ず2階の踊り場に着いたところで足を止めてしゃがみ込む。
「何で…」
知られてしまった。
誰にも知られたくなかった過去を。
彼等には…、会長だけには知られたくなかったのに。
『だから関係あるって言ってんだよ。いいか、お前は戸籍上姉さんの息子で俺様の甥に当たる存在だ。もし神代がそのことを知ればお前の存在はアイツ等に利用されかねない。そうなれば俺様にとっては不利になるんだよ』
文月さんの言う通り利用されているのかもしれない。
だから今まで文月さんのことについて触れられなかったとしたら…。
「悲しい、よ…」
『リカは俺のこと好きになってくれたんだよねぇ』
楽しかったのに。
『立夏くん、気付いてなかったんですか?僕は最初から立夏くんのこと大切にしてたんですよ』
『りっちゃんには俺の愛情が伝わってなかったのかね』
嬉しかったのに。
『頼むから、もっと自分のことを大切にしろよ』
俺だけが期待していた。
楽しいも、嬉しいも、俺だけだった。
「は、ははっ…」
笑える。
自分が惨めで情けなくて。
ああ、ダメだ。
視界がぼやける。
目の前が真っ暗だ。