だから、あたしは
 額や首筋から粘っこい汗が吹き出すほどに激しく動揺している。あらら、意外にデリケートなのね。

「誰にも言うなよ! 人に言ったら殺す! とっとと帰れ! 早く出て行け!」
 
 おっと、すごいわ。立場が逆転しているわよ。悔しそうに下唇を噛み締めているが言い返す言葉が見つからないらしい。

「チクショー、馬鹿にしやがって……! お、覚えていろよ!」

 涙目のままズボンを上げている。そして、当り散らすかのように、あたしを突き飛ばして出て行ってしまった。

「あーあ。汚いもの見たちゃったな。なんて日なの! 目が腐っちゃうよ」

 両手を丹念に石鹸で洗っていると、あたしの前にある鏡に人影が映ったのでドキッとなった。大河内がトイレの個室から出てきた。

「ごめんねー。驚いた顔をしているよね。鈴木のわめき散らす声が聞えたから個室に入ったんだよ」

「先輩、盗み聞きするなんて感じが悪いですよ」

「君、可愛いのに気が強いんだね~」

 言いながら、馴れ馴れしく肩を叩こうとしているが、あたしは咄嗟に手を払っていく。

「駄目ですよ。ウンコしたでしょう。洗っていない手で気安く触らないで下さいよ」

「ウンコ? 違うよ。トイレの中から君の様子を見守っていたんだよ。まっ、いいか。それじゃ、ちゃんと石鹸で手を洗うからね」

 石鹸をつけて丁寧に洗っている。そして、清潔そうなアイロンの行き届いたハンカチで拭いている。

「先輩、どうして鈴木を放置しているんですか? そういうのって卑怯だと思いますよ」

「いいねー。僕にそんなことを言うのは世の中で君だけだね。君って愉快な人だな」

 心地良さ下にクスッと笑っている。でも、急にスイッチを切り替えるように表情が消え失せたのだ。誰か来ると気付いた大河内が入り口に注意を向けていた。数秒後、不意に扉がパーンと開いたのだ。

「いずみ! 大丈夫か?」

 慌ててトイレに飛び込んできたのは騎士だった。

「えっ? なんで、ここに大河内さんが?」

 騎士は、顔の筋肉を強張らせながら警戒したように問いかけている。すると、大河内が脱力気味に笑みを浮かべながら肩をすくめた。

「たまたま居合わせただけだよ。僕は鈴木に加担していないよ~」

 この時、騎士が電動のバリカンを持っていたものだから、あたしは目を引ん剥くようにして仰天してしまう。

「騎士ったらヒドイよ! あたしを坊主にする悪魔の道具をわざわざ持ってきたの!」

「いや、そうじゃない。俺が丸坊主になって詫びるつもりだったんだよ」

 あら、そうなの。

「安心してね。あたしがマネージャーとして癌張れば、これからは、騎士も野球の練習が出来るようになるわよ」

「さぁ、それはどうかなぁ」

 黙って話を聞いていた大河内が、またしても口を挟んだのである。

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