恋するわたしはただいま若様護衛中!
「紅葉、どうしたの?」
「え! あ……す、素敵な玄関でびっくりしちゃった……」
私は急いで靴を脱ぎ、お家に上がらせてもらう。
伊吹の後ろをついて縁側沿いの長い通路を歩く。伊吹はその先の襖を静かに開けた。
「今タオル取ってくるから、ここで待っててね」
「あ、ありがとうっ」
にこりと微笑む伊吹は、私を客間に置いて立ち去る。
部屋の中を覗くと、和モダンな客間だった。
優しいベージュ色の壁に、丸窓が和を演出している。
畳の上に高級そうな木目のローテーブルが置かれ、すでに座布団が用意されていた。
私はその一つに座って、雨音がかすかに聞こえる中を緊張しながら待つ。
髪先からぽたりと雫が落ちた時、足音が近づいてくるのがわかった。
「いぶ――⁉︎」
「あら、女の子?」
現れたのは、高級そうな花柄の着物を着た綺麗な女性。
立ち姿だけで気品と華麗さが伝わり、私は背筋をピンと伸ばして緊張が最高潮に達する。
すると女性の背後に、タオルを手にした伊吹が慌てた様子で顔を出す。
「母さん!」
「伊吹、帰ってたのね」
伊吹のお母さんだとわかった私は、挨拶しなきゃと思って勢いよく立ち上がる。
「は、初めまして! 上田紅葉と申しますっ」
「ふふ、元気な子ね。伊吹の母です、よろしくね」
伊吹のお母さんがにこりと微笑んでくれた。その表情が少し伊吹にも似ていて、少しドキドキした。
優しそうなお母さんで安心したけれど、伊吹は少し困っているようだった。
「紅葉は同じクラスの子で……急に雨が降ってきたから上がってもらったんだ」
「あら、それで二人とも濡れているのね」
心配そうに私と伊吹を交互に見る伊吹のお母さん。
けれどすぐに目尻を垂らして、伊吹に質問を投げかけた。
「でも伊吹が女の子を連れてくるなんて初めてだから、お母さん嬉しくなっちゃった」
「な、何言ってるんだよ母さんっ」
「照れなくてもいいじゃない、ね? 紅葉ちゃん」
「え⁉︎」
伊吹のお母さんは私の手を握って、笑顔を向けてくる。
歓迎されている? だとしたら嬉しいけれど、同時に申し訳なく思ってしまった。
初めて来た女の子が、令嬢ではなく平凡な私でごめんなさい。
そんな私の顔を隠すように頭上からタオルがかけられた。
すぐに伊吹の仕業だと理解した。
「母さん、紅葉に絡まないで」
「えーどうして? うちは息子しかいないから女の子とお話したいのに〜」
伊吹のお母さんの、いじけたような声が聞こえた。
けれど手を離してくれたおかげで、私はようやくタオルを手にすることができた。
伊吹にも迷惑かけちゃったかなと思って、私が視線を上げる。
すると、照れたような表情の伊吹と目が合った。
私はドキッと胸を鳴らして、反射的に顔を背ける。
伊吹もあんな顔するんだ。もしかして私にタオルを被せたのは、そんな顔を見られたくなかったから?
いつも冷静で落ち着いたイメージの伊吹の、新しい発見だった。
「母さんは書道教室があるんだから、早く準備した方がいいよ」
「そうだったわ。紅葉ちゃん、ゆっくりしていってね!」
「あ、ありがとうございます……」
伊吹のお母さんは手を振りながら立ち去って、急に静かになった客間。
少し気まずい空気の中、伊吹が私の正面に座った。
そしてタオルで髪を乾かしながら申し訳なさそうに話す。
「ごめんね、うるさくて」
「ううん! 美人で賑やかで、素敵なお母さんだよ」
「……ほんと、紅葉は優しいね」
「え?」
にこりと微笑む伊吹に、私は首を傾げることしかできなかった。
私なんかより、伊吹の方が絶対に優しいよ。
「……女の子を家に連れてきたことなかったから盲点だった」
「っ……?」
「母さんのこと、もっと警戒しておけばよかったよ」
少しだけ頬を赤く染めている伊吹が、猛省しているように見えた。
私に迷惑をかけていると思っているなら、その不安をすぐに取り除きたかった。
「あの! ヤンキーから庇ってくれたり、こうしてタオルも借りられて私は助かった」
「え、本当?」
「うん! 急に雨も降ってきて緊急事態だったから、私が伊吹の家に来たことはノーカンだよ!」
「……えっ」
途端、伊吹の表情がどこか悲しそうにしたまま動かなくなった。
私は今日の出来事をなかったことにした方が、伊吹のためになると思って提案した。
そうしたら、私に迷惑をかけたと思う必要もない。
初めて女の子を連れてきたことで生じた失敗も、なかったことにできるし次への対策にもなる。
けれど伊吹の反応を見てると、私は何か間違ったことを言ったのかもしれない。
そんな不安に駆られた時、丸窓から見えた空が晴れていることに気づいた。
「あ、雨止んでる……」
「え……?」
「っじゃあ私帰るね、また明日!」
気まずい空気から逃げるように、私は客間を飛び出した。
急いで靴を履いて玄関を後にした時、首にかけたタオルに気がつく。
「あ、持ってきちゃった……!」
けれど今から伊吹の元に戻る勇気がない。
私は自宅を目指して、雨上がりの空の下を全力疾走した。
手に握ったタオルは、洗って明日必ず返すことを誓う。