それは麻薬のような愛だった
「ひえ…」
エレベーターに取り残された輿水はそんな間抜けな声を上げながら、腰を抜かして床に座り込んでしまった。
——なんて顔をするんだ、あの男は…!
重ねて言うが、輿水は自分を非常に合理的な人間だと自負している。
既婚者に無駄に恋愛感情を抱くなんて事はないし、ましてときめくなんて事はもっての外。他人のものなどに興味なんて無い。そもそもが時間の無駄だ。
だから周りがそうまでして天城に懸想する理由など、全くもって理解不能だった。
だというのに、何故これほどまでに胸を高鳴らせてしまっているのか。もう一体全体訳が分からなかった。
それが自分へ向けられた表情でない事など、分かっているはずなのに。
「……」
輿水はそっと自身の胸へ手を当てた。
未だ余韻を残した心臓はドクドクと激しく音を立てており、堪らず両手で熱の籠った顔を覆った。
——ああ、でも…これで分かった
仮面夫婦でも、エア奥様でも無い。
あるはずがない。
彼は本当に、心から妻のことを愛しているのだ。
あの天城伊澄にあれ程の表情をさせる女など——確かに、麻薬と表現する以外何物でも無かった。
「…いいなあ…」
顔すら知らない、会ったことすらない筈の女性に、ついそんな感情を抱いてしまった。
自分もいつか、誰かからそんな深い愛情を持たれてみたい。世間話に挙がるくらいであんなに幸せそうな顔をする、そんな恋をしてみたい。
そんな呟きを漏らした時、輿水の押したボタンの階層に到着した。
抜かした腰は元の状態を取り戻し、輿水はドアが開く前に慌てて立ち上がる。服についたゴミを払い、背筋を伸ばした。
ドアが開くと同時、輿水はゆっくりと外へと脚を踏み出した。
…fin


