恋するだけでは、終われない
第十五話
……あぁ!
最近のわたしは、どうかしている。
わたしはお風呂上がりの鏡の前で。
笑顔体操と称して頬を上げ下げしながら、自分自身に問いかける。
……原因は間違いなく、海原昴、アイツだ。
わたしが同じ中学から『丘の上』に進学したのは、積極的理由と消極的理由がある。
前者は、できるだけ知らない人の多い高校に行きたかったから。そして後者は、よくわからないけれど。そうしないとアイツと違う学校になってしまうからだ。
「由衣ちゃん。なんかそれって、理由が逆じゃない?」
卒業式のときに、少しだけ仲の良かった子に理由を聞かれて答えると、その子は不思議そうな顔をしていた。
「そうかな?」
まぁ、細かい違いなんてわたしにはあまり気にならない。
あの中学も、それなりには楽しかった。
でもこの栗色の髪の毛のせいか、はたまた『黙っていればかわいい』といううれしくない評判のせいか。
常に女子からは一歩引かれ、男子からは勝手なイメージを押し付けられる。
そんな日々が正直退屈だったり、窮屈だった。
うわべだけの付き合いの女友達がいても、とりあえず告白しましたみたみたいな男子がたくさんいても、わたしはちっともうれしくない。
中学でわたしはどこか、基本『違うところ』にいる人扱いだった。だけど海原だけは、わたしをわたしとして、見てくれた。
唯一で、一番の理解者だった。
「ねぇ、由衣ちゃん。卒業記念にもうひとつ聞いてもいい?」
「いいけど、なに?」
その子が、知りたかったのは。
結局わたしたちが付き合っているのかどうか、ということで。
「ないない……」
やっぱりその子もつまんないこと考えていたんだなと、少しガッカリした。
わたしだって、恋をしたことはある。
でもアイツのほうがマシそうだから、特に進むことはなかった。
誰かが、アイツも恋してると教えてくれたことがあるけれど。ワタシのほうがマシだろうから、たぶんそれは間違いだろう。
まだ始まったばかりだけれど、『丘の上』の生活はわたしには色々心地よい。
明るい校舎も、吹き抜ける風も、いまのところ人間関係も。
中学より人数が増えた分だけ、あるいは単に皆がより大人になりつつあるからだけなのか、いまいちよくわからないけれど。
いままでと違う、それだけでもわたしは結構楽しんでいる。
だけど、海原昴。アイツだけは、どうしても調子が狂う。
これまでどおり毎朝途中まで一緒で、その先は別々。
クラスが同じになったのも、いつまでかは知らないけれど席が隣同士なのも、アイツとは近い、ただそれだけ。
……それでよかったはずなのに。
どうしていまのわたしは、こんなに心がざわざわするのだろう?
海原は、わたしのモノではない。そんなことはわかっていた。
でも、アイツは高校に入っても変わらず、わたしの『隣』にいてくれるものだと。信じて、心のどこかで疑っていなかったのだろう。
ただ、きょうのことではっきりした。
海原は、わたしのモノでもない。
どうして、三藤先輩のところに行くの?
いったいいつのまに、都木先輩と仲良くなってるの?
春香先輩もそう、藤峰先生だってそう。
なんであんなにかわいくてすてきな人たちが、アンタを取り囲んでいるの?
……わたしだけじゃ、ダメだったの?
「あぁ、なんかわたし。相当痛い女になってるし……」
思わず鏡に独り言が出てしまう。
そうだ、わたしは痛い女だ。
知らないうちに、アイツはわたしを置いて羽ばたこうとしている。
わたしは、それについて行けていない。
「あぁ、なにこれ! やっぱ変! すんごく変!」
わたしが変わればいいの? でもアイツなしでどうやればいい?
そんなこと、わたし、できるのかな?
でも、そもそもわたし……。
変わらなければ、いけないの?
明日の朝、いままでどおりアイツの隣の席に座れるかな……。
わたしはベッドに入ると珍しく、いつもは窓枠に載せているぬいぐるみをひとつ手に取り、枕元に置く。えっと、やっぱりもうひとつ、あ、これも追加しよう……。
いつのまにかわたしは、窓枠にあったすべてのぬいぐるみを移動している。
「なんか病んでるなー、わたし」
そんなことを思いながら寝つく夜ほど、眠れるはずはなく……。
……翌朝、朝食の用意をするお母さんが思わずおかずを落としてしまうほど。
わたしの両眼には大きな『くま』ができていて。
いや、驚いたのはそれだけじゃない。
だって今朝は、いつもより三十分以上早く、自分で起きてきたのだから……。
「いってきまーす」
「い、いってらっしゃい……」
そういって驚いたままの父母をよそに、わたしは家を出る。
毎朝歩く道を進み、いつもと同じ駅の改札を抜け、変わらぬ乗車位置で列車を待つ。
ただ、すべてが「三十分早く」進んだいるだけ。
もし学校の誰かに聞かれたときは、たまたま今朝は早く目が覚めたからと答えればいい。
で、誰かっていったい誰?
この列車には、いつもの誰かさんは乗っていないのに……。いったいわたしは、誰に気を遣っているの?
普段ならその誰かさんに見えるようにと、無意識のうちに上げていた顔が。……今朝は、どうしても上がらない。
目の前で扉が開き、うつむいたまま車内へ入る。この列車の車内も、予想どおりガラガラだ。
三十分違うけれど、いつもの席に座るべきか少し悩みながら通路を進む。
……すると、最近覚えたばかりの声が、わたしを追いかけてきた。
「高嶺さん、おはよう。よければ一緒に、座ってもらっていいかしら?」
アイツが会いに行っていると聞いてから、わずかだが予想はしていたけれど……。ほんとにこんなことって、あるんだな……。
三藤月子の呼びかけに一瞬だけ、答えるのが遅くなった。
「気が進まないみたいね、高嶺さん……」
そんな瞳でわたしを、見ないでほしい。
寝不足の、こんなにひどい顔のわたしを見て。なにか楽しいですか?
どうしてこんな顔なのか想像して、うれしいですか?
なにか、ひとことでもいってやりたい気分だけれど。
……でもそんなの、ただのいいがかりでしかない。
この人を前に笑顔になれるはずもないが、それでいて突っぱねるほど。いまのわたしは強くない。
仕方なく無言で頷き、隣に座ろうとする。
するとこの人が、『余計な』ひとことを口走った。
「きょうは晴れているから。奥の窓際へ、どうぞ」
「え?」
その人はスッと立ち上がり、わたしが奥に入りやすいようにしてくれているけれど……。
「なんなんですか! それ!」
溜め込んでいた感情のせいで、やや朝の車内にはふさわしくない声になって。数は多くないけれど、周囲の人たちが思わずこちらをみる。
あぁ、やっちゃった……。
そりゃぁ驚くよね、もう、なにもかもが嫌になる……。
対して三藤先輩は、なにもいわない。
……いや、いえないのではなく。
わたしを受け止めようとして、言葉をかけないのだ。
仕方なく、わたしは窓際に座る。
何事もなかったかのように、先輩は優雅にわたしの隣に座り直して。背筋を伸ばして見つめ直してくる。
華奢な手から伸びる、細くて長くて白い指が、美しく膝の上で重ねられていて。
あぁ、わたしとは違いすぎる……。
この時期にしては憎たらしいほど、まぶしい朝の太陽が窓から入ってくる。
まぶしい。
この人も、太陽もまぶしい。
どちらも、見られないし、見たくない。
丁度、長いトンネルに入る。
窓際に視線を移すと、列車の窓にこちらを引き続き姿勢良く見つめてくる、その姿が反射している。
目に入るのは、知り合ってまもないわたしでもわかるくらい。
その人の雰囲気が伝わる、不思議な表情だ。
……ふと。
いまのわたしは、競えるような存在ですらない。
今度は自然に、素直に受け入れることができた。
わたしの、完全に負けだ。
涙さえ流れないほどの、ボロ負けだ。
わたしは膝の上で両手を握りしめると、一度だけ深呼吸して。
背筋を伸ばし、両目を大きく開いて。
小さいながらも力を込めて声を出す。
「ご挨拶が遅くなりました。三藤月子先輩。おはようございます」
おそらく、これが……。
いまのわたしにできる、精一杯の抵抗だった。