歪んだ月が愛しくて2
◇◇◇◇◇
「………」
『それに確かな根拠がないなら無闇に他人を信じるのはやめた方がいい。……君のためにもね』
あの目、あの威圧感…。
藤岡と名乗った彼は特別威圧的な言葉を発したわけじゃない。
文面だけ見れば友達想いの優しい言葉のようにも聞こえるが、史和が感じたものは優しさとは真逆の無機質なものだった。
口では到底説明出来ない、この感覚。
不気味で、恐ろしくて、優しさとは真逆の性質。
目に見えない恐怖から逃れるように固く目を瞑る。
でも脳裏に過るのは何を考えてるか分からない無表情の彼だった。
心臓の音が、酷く煩い。
呼吸の仕方を忘れた鯉のように意地汚く空気を取り込む。
彼を思い出しだけで、何故…。
史和には分からなかった。
初対面の人間を何故これほどまで恐れている自分がいるのか。
ガラッ
「よっ、元気にしてっか?」
ドアが開いたと同時に聞き覚えのある声が病室に響いた。
「何だお前か、驚かすなよ…」
「別に驚かしたつもりはねぇけど、退屈してっかと思ってちょっとしたサプライズをな」
「嬉しくねぇよ」
「またまた、自分から寂しくて電話して来たくせに。……あれ?さっきまで誰か見舞いに来てたの?」
「いつもの幼馴染みだよ」
「ああ、史くんのだーい好きな幼馴染みのアオイちゃんね」
「てっ、適当なこと言うんじゃねぇよ!!」
「はいはい。それにしても椅子出し過ぎじゃない?幼馴染みちゃんだけじゃなかったの?」
「……葵が、学校の友達とか先輩とかを大勢連れて来たんだよ」
「何で?お前も知ってる奴だったの?」
「知らねぇよ、まるっきし初対面だわ」
「じゃあ何でそんな大勢で押し掛けて来たわけ?」
「事件の詳細が知りたかったんだとよ」
「事件って…、お前が入院することになったあの事件の?」
「ああ。何でもこれ以上の被害を防ぐためとかどうとかそれっぽいこと言ってたけど…」
「ふーん…、だから俺に電話して来たわけか。それで親切に話してやったわけ?」
「……俺のせいであの人が犯人扱いされるのを黙って見てるわけにはいかねぇだろう。それに向こうは“鬼”の関与にも気付いてたみたいだし」
「キャッ、史くんやっさしー」
「茶化すなよ」
「いやいや、マジだって。絶賛反抗期中で大好きなアオイちゃんに素直になれないのはドンマイだけど、お前が隠れ信者で尚且つそう言う性格じゃなかったらいくら俺でも協力してくれなんて頼まねぇもん」
ドカッと、客人がパイプ椅子に座る。
友人ではなくあくまで客人としてこの男を呼び出したのは幼馴染みが帰ってすぐのことだ。
この男には何かあったらすぐに知らせるようにと常々言われていた。
そのため幼馴染みが大勢の友人を引き連れて見舞いに来たことを報告するつもりで連絡したらすぐさま飛んで来たのだ。
「お前に頼んで正解だったわ」
表面上は知人の見舞い。
しかし、男の目的は別にあった。
「お前が白夜叉犯人説を風聴してくれたお陰で今や東都では白夜叉フィーバーが再来してんよ」
「お陰で葵には嫌われそうだけどな…」
「大丈夫、大丈夫。全部片付いたら俺がちゃんと2人の仲を取り持ってやるからさ」
ゲラゲラと、楽しそうに笑う。
この男と言葉を交わす度、史和の中である疑念が膨らんでいく。
「それだけじゃないだろう。この事件に“鬼”が関与してることを隠せって…、警察の事情聴取でも話さなかったのに何であの連中にだけ…」
「そりゃあ相手の本気度を試すためだよ。興味本位で集る蝿共に態々餌を分け与えてやる必要はないからな」
「だから“鬼”の名前を絶対に出すな、なんて言ったのか…。じゃああの連中は?興味本位で集る蠅じゃないってことか?」
「そっ、漸く網に引っ掛かったんだよ。俺はさ、これを待ってたんだよねずっと」
「待ってた…?」
「さっきも言ったけど、普通この網に掛かる魚は興味本位で首突っ込むミーハー連中か、俺みたいな関係者か、当事者達、この3パターンしかいない。そんな中、連中は“鬼”の関与に気付いてた…。お前が外部に漏らしてない貴重な情報をな。つまりそれは連中が興味本位から首突っ込むだけのただのミーハーじゃないってことだ。俺みたいな関係者か、若しくは…」
「今日来た連中の中に“B2”がいたぞ。しかもあの人のことをよく知ってるみたいな口振りだった」
「“B2”?そういや“B2”のトップがアイツをストーキングしてるって噂が一時期あったな…。成程ね、蝶々の庇護下にあるなら俺達に気付かれないように姿を消すことくらいわけないか。本当人誑しなんだからあの魔性は」
男の笑みが更に深くなる。
その表情から男がこの時をどれほど待ち望んでいたか、男の真意が少しだけ垣間見えた。
しかし、だからこそ疑念が生じる。
「……なあ、本当にいいのか?」
「何が?」
「いや、だって、お前がしようとしてることって…」
「ああ、いいのいいの。こうでもしねぇとあの頑固ちゃんはいつまでも意地張って出て来ねぇんだから」
「でも…、それってあの人への裏切りになるんじゃ…「そうだな」
男は史和の言葉を遮って黙殺する。
いくらこの場所が個室とは言え用心するに越したことはない。
何故なら男には複数の監視の目が光っていた。
それを掻い潜ることは難しく、この状況も下手したら危ういかもしれないが、それでも男には史和の協力が必要だった。ある目的を果たすために。
「でも先に約束破ったのはあっちなんだから俺が何やったって文句言えないっしょ」
「、」
史和は疑念を口にしたことを後悔した。
男の目的は予め聞いて分かっていたが、まさか自分の行いがあの人への反逆になるとは夢にも思っておらず一気に血の気が引いていく。
「さてと、餌は撒き切った。釣れた魚がまさかお前の幼馴染みの近くにいたのは予想外だったけど、まあそれはそれでやり易いかもな」
「な、何を、するつもりだ…?」
「何警戒してんの?だーいじょうぶ、安心しなよ。別に物騒なことは考えてないから。ただアイツに分からせてやろうと思ってさ」
「分からせる?」
「そう。―――アイツが握ってる手綱はちょっとやそっとじゃ切れねぇってことをな」
男はゆっくりと、まるで溢れんばかりの感情を押し殺すように固く目を閉じた。
ピリピリした空気が肌に刺さる。
(ああ、これが…)
世間での彼の評価はあまりパッとするものではないため“金魚の糞”とか“忠犬ハチ公”などと好き勝手言われているが、今の彼を見てそんな軽口を叩ける者はいないだろう。
正に、羊の皮を被った獣。
どんなに温厚そうな容姿でも、人当たりの良い笑顔を見せても、彼もまた他の側近同様―――血に飢えた獣なのだ。
危うくその見た目に騙されるところだった。
「次は俺が約束を破る番だよな、―――シロ」
静かな空間で鋭い空気を纏ったまま、1匹の獣がひっそりと息を潜めて主人の帰りを待っていた。