ビター・ハニー・ビター
────目が逸らせない。


真っ黒な前髪が重くて、鬱陶しくて、煩わしくて。

顕になった瞳も結局は見えない。


なにも始まることは無い、なにか起こるわけでも無い。決めつけていたのは、あたしの方。

─────ただ、そうだ。

あたしは女で小鳥遊棗は男だって、今更気付いた愚かな脳みその奥で、赤いランプがくるくると点滅した。



「帰らなかったの、あんたの方だよね」


荒れもしていない長い指先が、カーテンのような前髪を掻き分けた。

瞬間。あろうことか、あたしの背筋にヒヤリとしたものが流れた。

───おそろしいまでに美しいまなざし。

なんて綺麗な顔を目の前にして、瞬きするしかできない、情けない身体。

そうだ、綺麗なものは他人の視線を、脳内の思考を奪う。

ぽかん、と間抜けに口を開くあたしを見透かしたように、小鳥遊棗は口の端っこを上げた。途端に、浮世離れした妖艶さを纏う表情に、ぎゅ、と心臓が縮こまる。

縮こまっている場合ではない。

おそらく、どこかであたしはこの男の何かに触れた。

ぎらぎらと揺れる色情を、瞳にねむらせた獣の本能を、叩き起したのだ。


「無欲か不能か……童貞か?あんたが試してみたら」


逸らせない、身体もぴくりとも動かない。ゆらゆらと漂う瞳孔が、うるさく鳴り響く心臓の音だけが、あたしが生きていることを知らしめている。


「っは、う、そ、冗談、」


なんとか必死で息をしたあたしの口を、その男は容易く塞いだ。

きっかけは取るに足らない小さな出来事。

ひっくり返った世界は、誰の手のひらで転がされているのか。

気付かぬ間に手のひらから転がり落ちているのか。

その先に待つのは断崖絶壁の崖の下?
それともふかふかのベッドの上?


たったひとつだけ言えることは、これはあまい恋の話ではないということだけ。
< 17 / 22 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop