カラオケだけが楽しみだった私が、仕事にも恋にも本気になるまで

地区予選

 会場は、地区文化センターの中ホール。
 座席数は300程度だが、カラオケボックスとはまるで違う。
 照明に照らされたステージ、客席のざわめき、背後から響くマイクテストの音――
 美織は、舞台袖でマイクを持つ手にじんわりと汗を感じていた。

「緊張してますか?」

 隣にいた響生が、ふと小声で訊く。

「……少しだけ。でも、青海さんとなら、大丈夫な気がします」

 そう言った自分の声が、少しだけ震えていた。
 響生は、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。

「僕も、そう思ってます」

 司会者が、ふたりの名前を呼ぶ。
 拍手が上がり、ステージの中央へと歩み出る。

 ライトが視界を包み、客席が霞んで見える。
 あのカラオケルームとは、まったく異なる世界。
 でも――やるべきことは、変わらない。

 イントロが流れる。
 美織は呼吸を整え、最初のフレーズを口にした。

 柔らかく、丁寧に、言葉を乗せていく。
 練習通り。響生のパートも、音もリズムも完璧。
 二人の声が重なり、サビへと入っていく――

 ……けれど、どこか足りない気がした。

 表情も、歌声も、十分に感情は込めている。
 でも、ステージ全体を包む“空気”をつかみきれていない。

 ――この広さじゃ、伝わりきらないのかも。

 目線は、前を向いたまま。
 練習のときは“通じ合っている”と感じたあの瞬間も、今はほんの少しだけ届かない。

 歌い終えた瞬間、客席からは拍手が湧いた。
 けっして悪くはない。むしろ、完成度は高い。
 それでも、美織の胸には、小さな違和感が残っていた。

「おつかれさま! すごくよかったよ!」
 袖に戻ると、サークルメンバーが声をかけてくる。

「ありがとう。でも……どうだった?」

「技術的には完璧。でもね――」
 麻衣子が、言い淀んでから続けた。

「舞台に立ったときって、もっと大きく“見せる”ことも必要なのよ。
 二人の気持ちは伝わってくるんだけど……目線や動き、ちょっと小さかったかも」

 美織は、はっとした。

「たしかに……練習では自然だったのに、今日はいつも通りの表現じゃ、距離があるのかも」

「うん。でも、土台はしっかりしてるから。
 “伝える”っていう意識さえ持てれば、次はもっと届くと思う」

 響生も、静かに頷いていた。

「僕たち、“声”は合ってきた。でも次は、“空間”に合わせて表現すること。ですね」

 ふたりは顔を見合わせ、小さく笑った。

 ――これが、今の自分たちの実力。
 でも、まだ“上”にいける。

 手応えと課題を両方胸に抱えながら、美織はひとつ息をついた。
 次の舞台では、もっと“伝えられる”歌を――

   ◇◇

 すべての出場者の歌が終わり、ステージの照明が少し落とされる。
 いよいよ審査結果の発表がはじまる。

 美織と響生は、舞台袖近くの席に並んで座っていた。
 どちらからともなく、そっと手を握る――というほどではないが、呼吸を合わせるように、静かに肩の力を抜く。

「……どう思いますか?」
 美織が小声で問う。

「うまく歌えたと思います。でも、届いたかどうかは……」

 司会者がマイクを手に、上位3組の名前を読み上げていく。
 3位、2位――名前は呼ばれなかった。

「そして、デュエット部門――地区大会優勝は……」

 会場が一瞬、静まり返る。

「高村美織さん、青海響生さんペア!」

 耳に飛び込んできた自分たちの名前に、美織は一瞬、反応が遅れた。

「え……?」

 拍手が巻き起こる中、隣で響生が小さく息を吐いた。

「……優勝、したんですね」

「……本当に?」

 震える手でマイクを受け取り、ふたりは舞台へと上がる。
 照明が眩しい。けれど今度は、何も怖くなかった。

「まだまだ、課題はあると思います。でも……次は、ちゃんと“伝える”歌を歌いたいです」

 美織はそう言って、客席をまっすぐ見た。

 響生と目を合わせる。
 目の奥に、同じ熱が灯っているのを感じた。

 ――次は、グランプリ大会。
 全国の強豪と戦う舞台。
 だけど、今なら言える。

 「この人となら、もっと高く飛べる」
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