カラオケだけが楽しみだった私が、仕事にも恋にも本気になるまで

最終調整

 大会本番の一週間前、日曜の午後。
 美織と響生は、いつものカラオケルームで最後の仕上げに臨んでいた。

 音程も、タイミングも、ハーモニーも――すでに、ズレはほとんどない。
 けれど二人は、表情、視線、言葉の“届け方”にまでこだわって、一つひとつを丁寧に確認していた。

「Cメロの“ためらい”をもっと繊細にして、最後のサビで一気に感情を出すと、ストーリーとして自然に感じると思います」

「うん、それなら……サビに入る直前、一瞬だけ目を合わせるのはどう?」

「いいですね。じゃあ……合わせましょう」

 最後の通し練習。
 歌い終えたとき、部屋の中には静かな達成感が満ちていた。

 小さく拍手を打ち、美織は笑った。

「……これで、本番いけそうですね」

「ええ。あとは、気持ちを込めるだけです」

 響生の声も、どこかやわらかい。

 リモコンを置いた後、二人はしばし無言で水を飲んだ。
 濃密な集中のあと、時間だけがゆっくりと流れていく。

「……あの」
 美織が少し声を張って言った。

「よかったら、このあと……ごはんでも行きませんか?」

 響生はわずかに目を見開いたあと、すぐに微笑んだ。

「もちろん。お腹、すいてきたところでした」

 日が落ちかけた街へ出ると、空気は少しだけ冷たく、肌をなでる風が心地よかった。
 駅近くのイタリアンに入り、窓際の席に通される。練習中とは打って変わって、少しゆるんだ空気。

「思ったんですけど……」
 サラダを取り分けながら、美織がぽつりと言う。

「私、こんなふうに本気で“誰かと一緒に何かを目指す”って、初めてかもしれません」

「……そうなんですか?」

「仕事も、自分の中で完結することが多くて。でも今回、歌で青海さんと合わせるっていうのは、技術だけじゃなくて、気持ちとか、空気とか……不思議な感覚で」

「たしかに。僕も、一人でやることが多いので、こういうのは新鮮です」

「青海さんって、いつも落ち着いてて、自信があるように見えるから……」

 言いかけて、ハッとする。
 少し照れたように、美織はサラダフォークを置いた。

「でも、たまに話してると、“あ、ちゃんと悩んでるんだな”って思ったりもして……」

「もちろん、悩みますよ」
 響生は、コップの水をひと口飲んで言った。

「職場だと、僕も一応、立場的に判断することが多いので……“正解がない場面”に向き合うことが増えてて」
 響生は、水のグラスを指でくるりと回しながら言った。

「考えても、どこまでがベストかなんて分からない。でも……こうして、まっすぐ音を合わせるような時間があると、救われる気がするんです」

 美織は、思わず笑みをこぼした。

「それ、ちょっとわかるかも」
「私も、総務って地味な仕事だと思ってたけど……誰かが気持ちよく働けるように支えるって、最近、歌と似てるなって思うことがあるんです」

「うん。伝える仕事と、支える仕事。どっちも、大事ですよね」

 カラフェから注がれたワインが、グラスの中で静かに揺れる。
 気づけば、店内のざわめきが遠く感じられた。

 ――歌を通して知ったのは、相手の声だけじゃなかった。
 その人の歩き方や、考え方、そして、隠していた弱さや強さ。

 この日、ふたりの心の距離は、もう一段階だけ近づいていた。
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