黒猫悪魔の溺愛契約

第1話 黒猫悪魔と阿部マリヤ

「あのとき助けられた黒猫です」

 夜を思わせる漆黒の髪に月のような金色の目、鈴のついた赤い首輪をした少年が、ニッコリと笑っている。
 それらはたしかに黒猫を連想させるものであることは間違いない。
 だが、彼はどう見ても人間の姿なのだ。人間が猫に変身できるはずがない。

「ああ、厳密には黒猫に変身できる悪魔なのだけれど」

 その少年の背にはコウモリのような翼が、腰には鉤状の尻尾が生えていた――。

 阿部マリヤという女は、ワーカホリックであった。
 二十五歳という年齢で仕事が楽しい時期。

「阿部さん、あとはよろしくね」

「おまかせください」

 他の同僚の仕事を安請け合いしてしまうせいで、彼女だけいつもひとりで夜遅くまで残業している。
 それでも、彼女にとっては問題ではなかった。

 ――残業すれば、それだけ残業代が出る。
 そのお金を貯めて、どんどん増えていく通帳の中の金額を眺めるのが彼女の楽しみであった。
 彼女のお金を貯める目的は特にない。だって、お金はあればあるだけいい。お金をもらって困ることはない。
 貯めたお金で何か贅沢品を買うわけでもなく、彼女の通帳の桁は膨れ上がっていくばかり。
 ただ、そのお金をたくさん持っていること、そして残業をしていたことが、彼女の運命を大きく変えるきっかけになったことは間違いない。

 その日の夜も、遅くまで会社に残っていた。
「今は若いからいいかもしれないが、こんなに無理をしたらいずれ倒れてしまう」という上司や医師の忠告を、右から左に聞き流し、彼女は働き続けていた。
 マリヤには、およそ趣味と言えるものがない。休暇をもらっても、それを持て余してしまうだけだ。だったら働いたほうが時間をムダにしなくていい。

 ――どうして有給休暇というものが存在するのだろう。
 いや、存在するだけならまだいい。上司がそれを消化するように促してくるのである。
 彼女の休日は、たいてい一日寝るか、新聞を読むくらいしかすることがない。
 あとはソファでひたすらボーっとしている。買い物に行こうにも、欲しいものがない。
 まあ、つまりは「明日は休暇にしなさい」と上司に強制的に有給休暇を取らされたわけだ。

 マリヤは不服そうにしながら帰り道を歩く。
 明日は何をしようか。また音楽を聞いて一日布団に潜っていてもいいのだが、アレをやると生活リズムが崩れてしまって、仕事のパフォーマンスに悪影響を与えてしまう。

 そんなことを考えながら横断歩道の信号を待っていた、その時である。

「ぎゃあっ!」

 マリヤは突然悲鳴が聞こえてきたことにビクッと体を震わせる。

 ――今の断末魔はどこから?

 声のした方を見ると、車が走り去ったあとで、黒い毛の塊が道路に横たわっていた。

 ――黒猫だ。

 マリヤは急いでそれに駆け寄る。
 まだ轢かれたばかりで、体は温かく、息もある。
 彼女は大きなショルダーバッグから、簡易救急セットを取り出した。
 マリヤは心配性が災いして、いつも裁縫セットや救急セット、名刺を百枚など、過剰に準備するクセがあった。そのせいでショルダーバッグはいつもパンパンだ。余談であるが、ペンケースも大きく、色んなペンや文房具が入っているタイプである。
 しかし、それが今回は幸いした。

 黒猫に包帯を巻き、止血して、骨が折れていそうな箇所はそのへんに落ちていた木の枝で固定した。
 取り急ぎタクシーを呼び止めて動物病院に向かう。

「応急処置をしてくださったおかげで、この子は助かりそうです」

 獣医は笑顔でマリヤにお礼を言った。
 マリヤもぎこちない笑みを返す。彼女は笑顔を作るのが苦手だ。

 動物病院での処置を終えて、マリヤは黒猫を引き取り、マンションに連れて帰った。
 マンションはペットを飼っても怒られないが、彼女は飼うつもりはない。
 かといって、助けてしまった責任はある。ネットで里親を募集するつもりだった。

 しかし、さすがに帰ってきた頃には夜中の二時を回っており、体力的に限界を迎えている。

 ――明日は休みだ。起きたら猫の世話をしながら、ゆっくり里親を探せばいい。

 マリヤは黒猫と一緒にソファに横たわり、そこで意識が途切れた。

「――お姉さん。お姉さん、起きて。朝だよ」

 聞き覚えのない子供の声がする。
 隣の部屋に子供連れが越してきたのか。にしては、やけに声が近い。

「起きないと、食べちゃうよ」

「んん……?」

 渋々と目を開けると、目の前に少年の顔があった。
 驚いて、後ずさろうとすると、ソファの角にしたたかに頭をぶつけて悶絶する。

「大丈夫?」

「えっと……君は誰?」

 昨日、寝る前に玄関の鍵を掛け忘れたかもしれない。

「僕は、昨日助けられた黒猫です」

 言われてみれば、漆黒の髪、金色の目、鈴のついた赤い首輪は、たしかに猫っぽい。
 ただし、マリヤは人間が猫に変身するようなファンタジーは信じちゃいない。

「早くここを出て、自分の部屋に戻りなさい。親御さんが心配するでしょう」

「僕に帰る場所はないよ」

 ふるふると首を横に振る少年を、マリヤは訝しげに眺める。
 年齢は13歳くらいか。儚げな印象だが、美少年と言って差し支えない美貌だった。

 そういえば、昨日助けた猫はどこに行ったのだろう。

「厳密には、僕は黒猫に変身できる悪魔なんだ」

「へえ、そう。車に轢かれるなんて、ずいぶんマヌケな悪魔なのね」

「信じてないでしょ」

「悪いけど、そういうごっこ遊びに付き合ってるほど暇じゃないの」

 いや、休日はすることがないので本当は暇だけれど。

「これなら信じてくれる?」

 少年の背中から、なにか黒いものが広がった。
 ――コウモリのような翼だ。
 おまけに、腰の辺りから鈎状の尻尾まで生えていて、ユラユラと揺れている。
 マリヤは唖然としていた。

「どう? 信じてくれる?」

「触って確かめてもいい?」

「疑り深いな……」

 少年は呆れながらも許可をくれたので、マリヤは遠慮なく触った。
 翼も尻尾も、作り物ではなさそうだ。
 付け根も確認したが、しっかり身体から生えている。

「あ、そこは触っちゃダメ。敏感だから」

「えっ、あっ、ごめん」

 マリヤは慌てて手を引っ込めた。
 しかし、こうなるともう信じざるを得ない。

「本当に、悪魔っているんだ」

「うん。昨日は助けてくれてありがとう」

 少年は照れくさそうに、はにかんでいた。

「僕の名前はスヴェン。お姉さんにお礼がしたいのだけど……」

「別にそんなのいいわよ。それより、元気になったようで良かった」

 スヴェンの頬に手を伸ばし撫でると、彼はすりすりと手にすり寄る。その仕草は本当に猫のようだ。

「あのね、僕、本当に行く場所も帰る場所もないの。だから……」

 スヴェンは頬を撫でるマリヤの手を取って両手でぎゅっと握りしめる。

「だから、僕と契約して欲しいんだ」

「契約……?」

 悪魔に願いを叶えてもらう代わりに、魂をよこせとかいう、アレだろうか。

 身構えるマリヤだったが、スヴェンはご丁寧に契約書を取り出した。

「僕をここに住まわせてくれたら、僕はお姉さんの代わりに家事をします。オプションでお姉さんに幸運をもたらします。契約書をご確認ください」

 スヴェンから差し出された契約書を、隅々まで穴のあくほど確認する。
 仕事柄、こういった契約書のたぐいはしっかり読みこんでおくのがマリヤの癖になっていた。

「ふーん……読んだ限りでは問題なさそうだし、悪い話ではなさそうね」

「じゃあ、ここにハンコかサインください」

 言われた通りにサインすると、契約書が微妙に光を放ったような気がした。魔力が通った……のだろうか。

 何にせよ、仕事仕事の毎日でプライベートが疎かになっており、家事もロクにできていなかったマリヤにとって、家事手伝いが家にいてくれるのはありがたい。

 そうして、その日からスヴェンとの暮らしが始まったのであった。

〈続く〉
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