黒猫悪魔の溺愛契約

第2話 幸運の代償

 ――午前5時半。
 目覚まし時計の音が鳴り、マリヤはそれを素早く止めた。

「おはよう、マスター。朝早いんだね」

 キッチンでは既にスヴェンが起きていて、朝食の用意をしてくれている。

「マスターって何?」

「僕はお姉さんの使い魔だから」

「別に、普通に『お姉さん』呼びでいいのに」

「こういうの、きっちりしておきたいから。マスターだってそういうタイプでしょ?」

 そう言われると返す言葉もない。

 スヴェンの作る料理は言う事無しの美味しさだった。
 使い魔契約をしたとはいえ、悪魔にどの程度の料理ができるのか謎だったので、その点では安心である。

「それじゃ、いってきます」

「気を付けて」

 朝の支度を済ませてマンションを飛び出した。
 振り返ると、スヴェンが窓から手を振っている。
 なんだか、今日はうまくいきそうな気がした。

 スヴェンの契約通り、オプションで幸運がついて回るらしい。
 マリヤがいつも仕事を頑張っているということで、その日、会社に着いた途端いきなり表彰され、表彰金というものをもらうことになった。
 臨時収入でルンルンしていると、終業後、「今日は任せられる仕事がない。全て片付いてしまった」と申し訳なさそうに言われ、残業がないのか……と肩を落としたが、「今まで頑張ってくれた分、残業代を割り増しする」との打診をもらい、これまで残業してきた分にプラスして給料に上乗せされることになった。
 マリヤがこれまで残業していたのは残業代のためなので、まあ残業しなくてもお金が貰えるなら、それに越したことはない。

「阿部さん、今日は定時で上がるの、珍しいね」

 同僚の男性に声をかけられ、成り行きで一緒に会社を出た。
 すると、会社前で女性社員が誰かを囲んでいる。

「え〜! 可愛い!」

「キミ、どこの子? お姉ちゃんを待ってるの、偉いね〜」

 ……誰だろうなんて、考える余地もない。

「あっ、マス……お姉ちゃん!」

 スヴェンがマリヤに向かって手を振っている。
 彼は小柄で華奢な体型、おまけに幼いながらも容貌が美しいので女性社員から可愛がられるのも納得がいく。

 マリヤに駆け寄るスヴェンだったが、隣の男性社員を見て、警戒心を顕にした。

「……誰、その男」

「同僚だけど」

「ふーん……」

 スヴェンは値踏みをするように、その男性社員を眺めたあと、パッと顔を明るくしてマリヤの手を引く。

「お姉ちゃん、早く帰ろ! 今日はシチューを作ったんだ」

「ありがとう」

 同僚の男性は、声をかける暇もなく置いていかれたのであった……。

「……マスター、あまり男に近寄らないで」

「どうして?」

「マスターが他の男に盗られるの、嫌だもん」

 スヴェンはマリヤの食べ終わった食器を片付けたあと、ソファに座る彼女の膝に乗って、甘えるように擦り寄る。

「と言われましても、仕事で関わらないわけにはいかないでしょ」

「それでもダメ!」

「うーん、困ったな〜」

 マリヤはスヴェンの頭や背中を優しく撫でた。
 スヴェンはリラックスしているのか、猫耳も鉤付きの尻尾も出したまま、「えへへ……」とマリヤに抱きつく。

 ――まあ、年上のお姉さんに甘えたいから嫉妬してるだけなんだろうな。

 マリヤはスヴェンに対して、可愛い弟が突然出来たようなものだと思っている。
 こんな年端もいかないような外見の男の子に、恋愛感情など抱くはずもない。

 幸運を運んでくれて、家に帰れば身の回りの世話をしてくれて、家事の負担も減る、この生活を維持したい。

 ただ、マリヤの誤算は、スヴェンが命を救われたことで、マリヤに執着し、溺愛していることであった。

 次の日からスヴェンはマリヤの会社の送り迎えまでしてくれるようになり、女性社員たちから人気を得ることになる。
 そして、男性社員には睨みをきかせ、威嚇するようになるが、マリヤはそれを関知していなかったのである……。

 それでも、勇者というのはいるものだ。

「阿部さん、お昼一緒にどう?」

 あの男性社員が声をかけてきた。

「今日お弁当持ってきてるから」

「最近毎日お弁当食べてるね。しかも栄養バランスも完璧。あの子が作ってるの?」

 たしかに、スヴェンの作るお弁当は卵の黄色やブロッコリーの緑色、パプリカの赤色など、色鮮やかに作られている。
 それは明らかにマリヤを気遣って作られたものだった。

「お弁当持ったままで構わないから、一緒に食べようよ。ひとりでお弁当って寂しくない? 俺もコンビニ弁当買ってくる」

 そこまで言うなら、とマリヤは男性社員とお弁当を食べることにする。
 ただ、二人とも気付いていなかった。
 男性社員がコンビニに行く時に、黒猫が会社の近くにいたことに。

 会社終わり、マリヤはスヴェンが待っているであろう玄関前まで急ぐ。
 この頃は無理に残業をしなくなった。
 残業代がなくても、スヴェンの運ぶ幸運で臨時収入が入ってくるからだ。

「お姉ちゃん、早いね」

「スヴェンを待たせるわけにはいかないから」

 マリヤの返答にニッコリ笑って、手を繋ぐ。
 そこへ、「おーい!」と男性社員が駆け寄ってきていた。

「俺も駅まで一緒に――」

「消えろ」

 スヴェンが恐ろしい顔でパチンと指を鳴らすと、工事中のクレーンから鉄材が落ちてきた。
 流石のマリヤも鉄材の下敷きになった男に青ざめる。

「きゅ、救急車……!」

「呼ばなくていいんじゃない?」

「スヴェン、なんてことを……!」

 真っ青な顔でスヴェンを問い詰めるマリヤを見て、彼は肩をすくめた。

「この男の不運は、マスターを幸運にするために必要だった」

「え……?」

「僕は黒猫の悪魔。契約者を幸運にするためには、他人から幸運を奪わなければならない」

 そして、幸運を奪われた人間は不幸になるのだと。
 真実を知ったマリヤは体温が下がる心地がした。

「そんなのダメ。破棄する」

「え?」

「貴方との契約を、破棄する」

 スヴェンは信じられないという顔をしていた。

「お姉さん、僕は――……」

 しかし、スヴェンは続きを語ることはなく、夕闇の中に姿を消した。

「待って! スヴェン!」

 手を伸ばしても、もう届かない。
 マリヤは救急車のサイレンが響く中、世界に一人置いていかれた気分だった。

〈続く〉
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