エリート外科医の蕩ける治療
「えっ? あー、えーっと。どうしても服に匂いがついちゃうなぁって」

そう言って杏子は自分の服の袖をくんくんと嗅ぐ。そんなの、飲食店で働いていれば皆そうなんじゃないのか。何も杏子に限った話じゃないだろうに。

「まだ気にしてるのか? それは仕事をしている証拠だろう?」

「う……」

店内だって唐揚げの美味しそうな香りが充満しているんだ。実際に調理をした人に臭いがつかない方がおかしいってものだろう?

あまりにも杏子が気にするので、どれほどのものなのか杏子の服に顔を寄せてみる。別に何も感じない。強いて言うなら――

「杏子のこと食べたいくらい、美味そうなにおいがする」

「――!」

とたんに、杏子の頬が真っ赤に染まった。「はわわわ」と声にならない声を上げながら、目があちこちと泳ぐ。

「あ、あ、あ、あのっ、先生、唐揚げ余ってるので食べますか?」

「追加注文?」

「さ、さ、さ、サービスです!」

「いいの? ありがとう」

「……喜んでいいんですよね?」

「何を?」

「美味しそうって言われたこと」

そこでハッと気づいた。そういえばそうだった。ニオイのことでも杏子は傷ついていたんだった。なんという軽率な発言。

「俺は褒め言葉として言ったけど、無神経だったな。ごめん」

「何でかわからないけど、先生に言ってもらえるのは嬉しいです。私の主治医だから?」

「……そうかもな」

自分の無神経さをごまかすように笑った。杏子も一緒に笑ってくれる。そうやって、杏子は今まで自分の気持ちをごまかしてきたのだろうか。そうやって何でもないように笑って……。

突然胸が苦しくなる。ずっとトラウマを抱えてきた杏子を、『診察』ではなくきちんと癒してあげたいと思った。俺のことなどどうでもよくて、杏子が心から笑える日が来たらどんなにいいだろうか。こんなに純粋な杏子が心から笑ったら、どんな顔をして笑うのだろう。

「杏子、次の診察だけど――」

そう口にした瞬間、ポケットに入れていた携帯電話がけたたましく鳴る。完全に病院からの呼び出しだ。断りを入れてから電話を取る。

「もしもし……ああ、わかった。すぐ行く。……杏子、ごめん。急患だから……」

「そのままで大丈夫ですよ。雨もちょうど小雨になりましたし、よかったです。お気をつけて」

杏子はわざわざ店の出入口まで見送ってくれる。小さく手を振ってくれる杏子に、俺は後ろ髪を引かれる思いで、走って病院まで戻った。

次の『診察』の日は結局決められないまま、うやむやになった約束だけが頭の中でくすぶり続ける。杏子に連絡すれば済む話なのに、仕事の忙しさと杏子への罪悪感に苛まれて、結局連絡することができなかった。
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