エリート外科医の蕩ける治療
「はー、しんど」

思わず漏れ出た言葉に、いかんいかんと自分を戒める。今は仕事中なんだから、お客さんに聞こえるような不快な言葉は慎まなくちゃ。とりあえず残りの5番部屋へのお料理は他の人に運んでもらおうかな。私はいいけど向こうが気まずいだろうし。

「杏子」

「はいっ?!」

呼ばれて振り向けば、元カレがムスッとした顔で立っている。人目を気にするように、廊下の端に連れていかれた。なんだなんだと、困惑する。

「やっぱり杏子だった」

「はあ……。えっと、久しぶり」

「なにお前、弁当屋やめたの?」

「やめてないけど? なんで?」

「いや、ここで働いてるから。てっきり転職でもしたのかと思って」

「あー……。掛け持ちしてる」

そういえばこの料亭が実家だって、伝えてなかったかも。伝えておけばうちを利用しようなんて思わなかったかもしれないな。そう思うと、ちょっとだけ申し訳ないような気もする。いやいや、申し訳なくなんてないや。むしろうちの売り上げに貢献してくれてありがとうだわ。

「……結婚するんだ? おめでとう」

「まあな。杏子は?」

「え? 私? 何もないけど?」

「何もないのかよ。やっぱり杏子は色気が足りないんじゃね? 見た目は可愛いんだけどな?」

値踏みするように見られ、背筋がぞわっとする。この男とはもう数年前に別れているし、長い付き合いでもなかった。フラれたのは私だけど未練なんてこれっぽっちもないし、あげくトラウマを植え付けられたのだ。そんな男にまだ自分の所有物みたいな言い方をされるなんて解せない。

なんていうか、恨み節の一つでも言いたいところだけど、ここは料亭。私は店員、この人はお客さん。ぐぬぬ……。言いたいのに言えないもどかしさに唇をかむ。

「えーっと、それでお客様、ご用件はなんでしたでしょうか?」

「おいおい、急に他人行儀になるなよ。俺は杏子のことを心配して聞いてやってんだろ」

「御心配にはおよびません。私にもイケメン彼氏がいますので」

「杏子にイケメン彼氏? ウケる」

ええ、どうぞどうぞ。ご自由に笑ってくださいな。むかつくけど我慢我慢。ていうか、仮にも結婚の両家顔合わせ中になんで抜け出してきてるの。早く部屋に戻りなさいよ。
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