泡沫ユートピア
『おや、よく眠っているじゃないか。無防備な小娘だねぇ。ふふ、喰ってやろうか』
耳元で、誰かの声がした。やけに(つや)っぽい女性の声だ。
(喰う?)
夢にしてはやたらと臨場感のある響き。けれどその内容は穏やかではなく、ふわふわとした心地の良い微睡みが引き潮のように遠ざかっていく。
『ねぇ、あんたの得意なまじないをかけておくれよ。人間の肉なんか百年ぶりなんだ。腹でも壊したら嫌だからね』
『そっとしておいておやり。だいたいあんた、若い男が専門だっただろう?』
(かたわ)らに複数の気配を感じた。一体、何の話をしているのだろう?
でも今は、(まぶた)を開けることすら億劫(おっくう)だ。会話の内容は気になるものの、瞼の重みがそれを拒否する。
『それにほら、よく見てごらんよ。この子は―――』
耳元でそよぐ、甘ったるい吐息と(ささや)き。
冷たい、冷たい指先が、すっと―――首筋を撫でた。

「うわぁぁっ!!」
氷のような感触に、眠気が吹っ飛んだ。
悲鳴を上げながら飛び起き、サイドテーブルへ手を伸ばしていた。そこが目覚まし時計の定位置だからだ。
(今、何時?)
あとどれくらい眠れる時間があるんだろう。視界が薄暗いということは夜明け前なはず―――。
「……大丈夫?」
すでに着替えを済ませ、トーストを口に運んでいた蓮くんが優しく声をかけてくる。相変わらず朝が早い……。
​ぼんやりとした頭を無理やり起こしながら、私はキッチンへ水を取りに向かった。机の上に置かれた時計の針を見ると、六時半を示している。
「未来ちゃんが朝早いの珍し〜!」
ニコニコと食パンを食べながら話す蓮くん。
「変な夢を見て、それで……」
「怖かったの?」
小さく頷く。夢の内容はほとんど覚えていないけれど、あのゾッとするような恐怖の感覚だけは胸に強く残っていた。
「ねぇ、蓮くん。話変えるけど、私達……何で一緒のベッドに寝てるの?」
三人で住むには十分すぎるほど大きな家なのに、何故か寝室にはセミダブルベッドが二個『だけ』並べられていた。サイズ的にも、シングルを三つ置くとか、もう少し考えようがあったんじゃないだろうか。
引っ越し初日、私が「私は床に布団を敷いて寝るよ」と提案したのだが、悠くんに「風邪を引くからダメだ」と一蹴された。
次に悠くんが「じゃあ俺がソファで寝る」と言い出したが、今度は蓮くんが「一人だけ仲間外れは可哀想だよ」とふくれっ面で却下。
他に解決策も思いつかず、結局『三人でベッドを並べて寝る』という謎の運用がスタートしたのだが……。
「僕はあのままでも良いんだけど……三人でも十分な広さだし」
「私は気まずい!」
「そっかぁ……どうしよう」
あまり困ってなさそうに考え込む蓮くん。
あまり困っていない様子で、あざとく首をかしげる蓮くん。
そうこうしているうちに蓮くんが朝ご飯を食べ終わり、ようやく悠くんが部屋から出てきた。髪を少し跳ねさせたまま、眠たそうに大きな欠伸(あくび)をしている。
「おはよ、悠斗」
「おはよう、悠くん」
「……はよ」
​寝ぼ眼だった悠くんは、時計を見るなり物凄いスピードでパンを腹に押し込み、一瞬で身支度を整えて戻ってきた。もう少し早く起きていればいいのに、相変わらず手際だけは無駄に良い。
「未来ちゃんの制服姿、可愛い!」
「え、嬉しい!」
まさか褒められるとは思ってなくて照れてしまう。
「二人も似合ってるよ!」
次の瞬間、悠くんの手が胸元に伸びてきて
「リボン曲がってる」
そのまま制服のリボンを軽く引っ張って、位置を直してくれた。
「う、嘘っ!ありがと〜」
わぁ、何されるのかと思ったらリボンを直してくれたんだ。
「高校生になっても変わんねぇのかよ」
私の頭をワシャワシャしながら鼻で笑う悠くん。
「う……」
「おっちょこちょいな未来ちゃんも可愛い〜」

「……」
​新入生がひしめく1年A組の教室。女子生徒たちから向けられる刺すような視線が、痛いほど突き刺さる。
​私の苗字は『白露(しらつゆ)』なので、出席番号順で蓮くんの前……つまり、蓮くんは私の真後ろの席だ。ちなみに悠くんはお隣の1年C組。
さっきから後ろから身を乗り出して蓮くんが親しげに話しかけてくるので、目立たず静かに過ごしたかった私の計画は早くも崩壊しつつあった。
「未来ちゃん、お弁当は一緒に食べようね!」
「う、うん」
​どんな断り文句を頭の中で練り直しても、この国宝級の可愛い笑顔の前にはすべて無力化されることを、私は嫌というほど知っている。
​すると蓮くんは、通学鞄の中から大事そうに風呂敷包みを取り出した。それはなんと、豪華な三段の重箱だった。
「早起きして未来ちゃんと悠斗の分のお弁当も作ったんだ〜!」
「凄っ」
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