ベンチャーCEOの想い溢れる初恋婚 溺れるほどの一途なキスを君に
 と、エレベーターが到着して扉が開く。

 廊下には人の気配はなく、静まりかえっている。

 すぐそばにある個室の扉の前でいったん立ち止まると、蒼也がきっちりと腰を曲げて頭を下げた。

「とにかく、演技だから。頼む」

「はい」

 ノックしてドアを開けると、中はちょっとしたマンションのリビングのような広さだった。

 トイレもバスルームも備わっている。

 窓際のベッドは少しばかり角度を上げてあり、幸之助がこちらを向いていた。

「おう、翠さんか。よく来てくれたね」

 ややかすれ声だが、顔色も良く、事情を知らなければただの昼寝から起きたところかと思うだろう。

 翠は何と声をかけるべきか一瞬ためらってしまった。

 そんな表情を見て取ったのか、幸之助の方から切り出した。

「もう聞いてるだろうが、食道癌でね。まあ、気をつかわんでもいいよ。なんというか、むしろホッとしとるんだな。突然逝くより前もって言われていた方が覚悟もできるよ。なにしろもう九十まで生きたからね」

 笑おうとするとむせてしまうようで、サイドテーブルに置かれたコップの水を自分でとって喉を潤した。

「実は」と、蒼也が枕元に歩み寄る。「今日は翠との結婚を報告に来たんだ」

「ほう、翠さんと、ようやくか」

 好々爺然とした笑みを浮かべながらうんうんとうなずいた幸之助がぽつりとつぶやいた。

「わしは結婚式には出席できんだろうから、ここで誓いのキスだけでも交わしてくれんかな」

 ――はあ?

「キ、キスですか」と、翠はあからさまにたじろいでしまった。

「夫婦じゃからのう。遠慮はいらんて」

 幸之助はスイス人の女性と結婚したため、西洋風な習慣に慣れている。

 だから、キスは日常の挨拶みたいな感覚なのだろう。

 蒼也が翠の腕をつかんで引き寄せた。

 ――ちょ、え。

 向かい合って耳元でささやく。

「演技だ」

 幸之助に聞かれないように翠も耳に向けてささやき返した。

「だって、そこはぼかすんじゃないんですか」

「演技だから。軽く、振りだけでいいんだ。カウントしなくていいから」

 カウント?

 ああ、なかったことにしろってことですか。

 まあ、そうなんでしょうね。

 すうっと心の奥が冷えていくのを感じる。

 ――なんか、馬鹿みたい。

 演技なのに私一人だけ熱くなったり焦っちゃったり。

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