社長の推しは、地味メガネのわたしでした。
 運転席からスーツを着た男性が降り、後部座席へと移動し、扉を開ける。ピカピカに磨かれた黒の革靴がアスファルトを踏み、スッと道路へと降り立った美丈夫。漆黒のスーツに、赤の蝶ネクタイ姿の彼は、雑多な街にあって異様な雰囲気を放っていた。そこに居合わせた全ての人が、唖然と彼を見つめる。会場入りするファンの長い列が出来ているにも関わらず、静まり返る周囲。そんな中、声をかけようと思うものは誰もいないだろう。

 彼の両手に握られた違和感ありありの代物のせいではない。手作りと思しきうちわと、ペンライトのせいでは決してない。違和感を凌駕するほどの存在感に、圧倒されているのだ。そんな異様な雰囲気に気づいているのか、いないのか、ぐるっと観衆を見回した彼が、目的の人物を見つけ、笑みを浮かべる。

 その笑みに心臓を撃ち抜かれたらしい女性の悲鳴に近い叫びが上がる。歩みを進める彼の一挙手一投足に、誰しもが注目していた。

「清瀬さん、こんばんわ。迷わなかった?」

 逃げ出したい。目の前で、爽やかな笑みを浮かべありきたりな挨拶を言う男に殺意すら覚える。痛いほどの視線に晒される事に慣れていない私は、社長の言葉に何も返せない。

「清瀬さん、大丈夫? 顔が真っ青だ。具合でも悪い」

 誰のせいだと思っているのよ!

 スッと伸びた指先が、俯き顔にかかった前髪に触れる。その繊細な手つきに一瞬、心臓の鼓動が跳ね上がったなんて絶対に言えない。

 慌てて彼の手を掴んだ私は全速力で駆け出した。
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