社長の推しは、地味メガネのわたしでした。

過去

 あぁ、美味しかった……

 趣向を凝らしたイタリアンのフルコース。前菜から、デザートに至るまで、目にも舌にも美味しい料理の数々は、入店してピークに達していた緊張感をいつの間にか和らげてくれていた。

 目の前にサーブされたカシスのジェラートが添えられたティラミスと、ノンカフェインの紅茶を楽しみながら、ふと考える。カトラリーの横にさりげなく置かれた箸にしても、時間帯を考えて提供される飲み物一つとっても、客への配慮がされている。

 入店した時から、今の今まで、ジーパンにパーカー姿の私を冷ややかな目で見る従業員は一人もいなかった。皆、穏やかな笑みを浮かべ迎え入れてくれる。だからこそ、店の敷居の高さに萎縮していた心も軽くなり、純粋に食事を楽しむことが出来たのだ。

 どんな客が来ようとも、最高のおもてなしを提供する。支配人が言ったあの言葉が、末端の従業員にまで浸透している。とてもプロ意識が高い店なのだろう。

 この店は、人を見た目で判断しない。

 その安心感が、萎縮した心を解放してくれたのかもしれない。

「清瀬さん、料理どうだったかな?」

 声をかけられてやっと、会話を忘れるほど、食事に夢中になっていた事に気づく。今の今まで、社長の存在を忘れていた。目の前に座り、コーヒーカップに口をつけた彼を見て、少々気まずくなる。

 あんなに、入店を嫌がっていたのに、社長の存在を忘れるほど、一人で料理を堪能してしまった。食事中、一言も声をかけなかった社長も、きっと料理を堪能していたに違いない。そう思わなければ、居た堪れない。

「――美味しかったです」

「そうよかった」

 満足気な笑みを浮かべ、それ以上何も言わない彼に、妙な焦りが心をざわつかせる。

「あ、あの……社長。もしかして、このお店貸し切ってくれたんですか?」

「えっ、あぁ。あんまり言いたくはなかったんだけどね。清瀬さんをどうしても、この店に連れて来たかったんだ。だけど、他に客が居たら、絶対に君はその格好では、この店に入ってくれなかっただろう?」

「それは、まぁ。誰だって、躊躇すると思います」

「確かにね。俺だってこんな無茶、本来はしないよ。ただ、何かきっかけがないと、清瀬さん変われないんじゃないかな」

「変わる? 別に変わりたいとは思っていません」

「本当にそうなのかな? 誰かと比べ、劣等感に支配され、周りの目を気にして生きるなんて、つまらないと思わない?」

 誰かと比べ、劣等感に支配され、周りの目を気にして生きる……。そんな人生、つまらないなんて身に染みてわかっている。ただ、そうすることでしか生きられない人間もいるのだ。
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