かんざし日和 ――恋をするのに遅すぎることなんかない
第六話 「喫茶店での語らい」
スーパーを出たのは、いつもより少し遅めの時間だった。
軽く清掃を手伝い、スタッフと簡単な会話を交わしてからロッカールームを出た。外の空気は冷え込んでいたが、昼間よりもどこか澄んでいて、志乃はスカーフの端を少しきゅっと握った。
街灯に照らされた歩道を、ゆっくり歩く。
まっすぐ帰るつもりだった。でも、いつもと違う道を歩きたくなって、一本裏手の、大学構内をかすめるような小道を選んだ。
そのときだった。
「……あ」
声に振り向くと、そこにいたのは――見慣れた姿。
ツイードのジャケット。長身のシルエット。手には、スーパーの紙袋。
「川上さん……ですよね」
相手も少し驚いたように、けれどどこか照れくさそうに言った。
「はい……あら、先生も、この道を?」
自然と出た「先生」という言葉に、自分でも少し驚く。
「大学の近くに住んでまして。帰り道なんです」
「まあ、奇遇ですね。私、いつもは駅のほうに抜けるんですけど、今日はなんとなく」
「なんとなく、って……そういう日、ありますよね」
彼は笑った。その笑い方が、いつもより少し柔らかく見えた。
数歩並んで歩いたあと、英敏がふと立ち止まり、小さな声で言った。
「……あの、もしお時間があれば、近くで……お茶でもどうですか」
志乃の心臓が、ほんの少し早くなる。
「……お茶?」
「無理にとは言いません。ただ、少し話せたらと……思っただけで」
志乃は数秒だけ考え、それから静かにうなずいた。
「ええ、少しだけなら」
――スーパーのレジではできない会話が、そこにはある気がした。
並んで歩き出した足元に、夕方の街灯が長い影を落とす。歩くたび、その影が静かに重なった。
◇◇
喫茶店の店内は、落ち着いた雰囲気だった。
古い木の家具とランプの灯りが心地よい、大学近くの個人営業の喫茶店。時間が遅かったせいか、他に客は少なく、窓際の席に案内された。
志乃は、カップを両手で包み込みながら、目の前の相手――英敏の横顔をちらりと見る。
彼は、持っていた紙袋を椅子の横に置いて、湯気の立つコーヒーを見つめていた。レジ越しではわからなかった表情が、ここではちゃんと見える。
「……なんだか、変な感じですね」
志乃が微笑む。
「いつもはレジの前と後ろで、ほんの数十秒だったのに」
「ですね。あのレジのベルの音が、ここにはない」
英敏も、少し肩の力を抜いたように笑った。
そして、ふいに口を開く。
「僕……大学で教えています。理学部で、量子コンピュータの研究を」
「やっぱり、先生だったんですね」
志乃は、自然と声を漏らしていた。
「なんとなく、そうじゃないかと思ってました。どことなく、そんな雰囲気が」
「そんな雰囲気、ですか……」
照れくさそうに眼鏡を持ち上げる仕草に、志乃もつられて笑った。
「研究ばかりしてきたせいで、こういうのは、あまり慣れていなくて」
「私もです。こうやって、お客さまとお茶なんて……初めてですから」
一瞬、言葉が途切れる。けれど、沈黙は気まずくなかった。お互いの湯気の向こうで、静かに気配だけが寄り添っていた。
やがて英敏が、少しだけ視線を落としながら言った。
「……僕は、独り者です。ずっと、仕事だけで」
志乃も、ゆっくりと頷いた。
「私も、娘が独立したのを機に離婚しました。昔は、それなりに家族の形を守ってきましたけど……今は、ひとりです」
その言葉に、英敏は黙ってうなずいた。
「……スーパーに通うようになったのって、料理を始めたからですか?」
志乃が尋ねると、彼は少し笑って答えた。
「健康診断で散々な結果をもらって。自炊しなさいって、医者に言われて。どうにかこうにか、です」
「でも、ピクルスとか、いろいろ挑戦してるじゃないですか」
「まあ……あれは、ちょっと背伸びです」
ふたりの間に、初めて“笑い”が生まれた。
その笑いは、レジ越しの短い言葉では決して届かない場所にあった。けれど今は、その距離が、ほんのわずかに、確かに縮まっていた。
軽く清掃を手伝い、スタッフと簡単な会話を交わしてからロッカールームを出た。外の空気は冷え込んでいたが、昼間よりもどこか澄んでいて、志乃はスカーフの端を少しきゅっと握った。
街灯に照らされた歩道を、ゆっくり歩く。
まっすぐ帰るつもりだった。でも、いつもと違う道を歩きたくなって、一本裏手の、大学構内をかすめるような小道を選んだ。
そのときだった。
「……あ」
声に振り向くと、そこにいたのは――見慣れた姿。
ツイードのジャケット。長身のシルエット。手には、スーパーの紙袋。
「川上さん……ですよね」
相手も少し驚いたように、けれどどこか照れくさそうに言った。
「はい……あら、先生も、この道を?」
自然と出た「先生」という言葉に、自分でも少し驚く。
「大学の近くに住んでまして。帰り道なんです」
「まあ、奇遇ですね。私、いつもは駅のほうに抜けるんですけど、今日はなんとなく」
「なんとなく、って……そういう日、ありますよね」
彼は笑った。その笑い方が、いつもより少し柔らかく見えた。
数歩並んで歩いたあと、英敏がふと立ち止まり、小さな声で言った。
「……あの、もしお時間があれば、近くで……お茶でもどうですか」
志乃の心臓が、ほんの少し早くなる。
「……お茶?」
「無理にとは言いません。ただ、少し話せたらと……思っただけで」
志乃は数秒だけ考え、それから静かにうなずいた。
「ええ、少しだけなら」
――スーパーのレジではできない会話が、そこにはある気がした。
並んで歩き出した足元に、夕方の街灯が長い影を落とす。歩くたび、その影が静かに重なった。
◇◇
喫茶店の店内は、落ち着いた雰囲気だった。
古い木の家具とランプの灯りが心地よい、大学近くの個人営業の喫茶店。時間が遅かったせいか、他に客は少なく、窓際の席に案内された。
志乃は、カップを両手で包み込みながら、目の前の相手――英敏の横顔をちらりと見る。
彼は、持っていた紙袋を椅子の横に置いて、湯気の立つコーヒーを見つめていた。レジ越しではわからなかった表情が、ここではちゃんと見える。
「……なんだか、変な感じですね」
志乃が微笑む。
「いつもはレジの前と後ろで、ほんの数十秒だったのに」
「ですね。あのレジのベルの音が、ここにはない」
英敏も、少し肩の力を抜いたように笑った。
そして、ふいに口を開く。
「僕……大学で教えています。理学部で、量子コンピュータの研究を」
「やっぱり、先生だったんですね」
志乃は、自然と声を漏らしていた。
「なんとなく、そうじゃないかと思ってました。どことなく、そんな雰囲気が」
「そんな雰囲気、ですか……」
照れくさそうに眼鏡を持ち上げる仕草に、志乃もつられて笑った。
「研究ばかりしてきたせいで、こういうのは、あまり慣れていなくて」
「私もです。こうやって、お客さまとお茶なんて……初めてですから」
一瞬、言葉が途切れる。けれど、沈黙は気まずくなかった。お互いの湯気の向こうで、静かに気配だけが寄り添っていた。
やがて英敏が、少しだけ視線を落としながら言った。
「……僕は、独り者です。ずっと、仕事だけで」
志乃も、ゆっくりと頷いた。
「私も、娘が独立したのを機に離婚しました。昔は、それなりに家族の形を守ってきましたけど……今は、ひとりです」
その言葉に、英敏は黙ってうなずいた。
「……スーパーに通うようになったのって、料理を始めたからですか?」
志乃が尋ねると、彼は少し笑って答えた。
「健康診断で散々な結果をもらって。自炊しなさいって、医者に言われて。どうにかこうにか、です」
「でも、ピクルスとか、いろいろ挑戦してるじゃないですか」
「まあ……あれは、ちょっと背伸びです」
ふたりの間に、初めて“笑い”が生まれた。
その笑いは、レジ越しの短い言葉では決して届かない場所にあった。けれど今は、その距離が、ほんのわずかに、確かに縮まっていた。