かんざし日和 ――恋をするのに遅すぎることなんかない
第七話 「アメ横」
昼下がりのレジに、見慣れた姿が並んでいた。
ツイードのジャケットに、今日はグリーンのセーター。いつもより少しだけ色合いが明るい。手にしたかごの中には、青梗菜と豚肉、そしてまだ何かを探しているような表情。
「こんにちは。今日も新しい挑戦ですか?」
志乃が声をかけると、英敏はほんの少し照れくさそうに笑った。
「ええ。青梗菜と豚肉で炒め物を作ろうと思って……あとは、何か副菜になるようなものがあればと」
「なるほど……それなら、もやしときゅうりで簡単なナムルが合うと思いますよ。お酢とごま油でさっと和えるだけで」
「ナムル……なるほど、また検索してみます」
そう言いながらも、英敏の視線はかごではなく志乃に向いていた。
「実は、来週の土曜日……朝にアメ横へ行ってみようかと考えてるんです。スーパーにはないような食材も見てみたくて」
「アメ横……いいですね。旬のものがいろいろ並びますよ」
志乃は微笑む。
「ええ。……もし、よろしければ、ご一緒にいかがですか。アメ横のこと、全然わからなくて」
英敏の声は、穏やかだけれど、いつになくまっすぐだった。
志乃の胸に、かすかに波紋が広がる。こうして誰かに“誘われる”ことが、どれほど久しぶりだろう。
「……いいんですか? 私なんかで」
「だから、お願いしたいんです。迷ってばかりなので」
その言い方が、少しだけ不器用で、でもどこか誠実で、志乃は自然と頷いていた。
「じゃあ、朝の九時。松坂屋の前で」
そう言った英敏の顔に、初めて見るような柔らかな笑みが浮かんだ。
――誰かと並んでアメ横を歩くなんて、想像もしてなかった。
でも、なんだか悪くない。そんな気がした。
◇◇
朝のアメ横は、想像以上に活気に満ちていた。
呼び込みの声、新鮮な魚の光る目、山盛りに積まれた果物。早朝にもかかわらず、買い物客が行き交い、店先で威勢のいい声が飛び交っている。
英敏は、目を丸くして立ち尽くしていた。
「すごいですね……圧倒されます」
彼は肩をすくめた。
「ふふ、慣れると楽しいですよ」
志乃はエコバッグを手に、自然と人波を避けながら歩き出した。
英敏が少し遅れて並ぶ。その距離が、どこかくすぐったい。
「まずは魚から。煮付け用なら、今日はカレイがいいですね。煮崩れしにくいし、身がやわらかい」
「なるほど……あ、これですね」
英敏が指差した先には、ぷっくりとしたカレイが並んでいた。志乃は近づいて、店主に声をかける。
「これ、二尾ください。煮付けにします」
「姉さん、味噌か醤油?」
「今日は醤油で。ちょっと濃いめに」
「いいねえ、男ウケする味だ」
店主の言葉に、志乃は「そういうのじゃないですよ」と笑って受け流す。けれど、英敏はなぜか少し照れたように咳払いした。
「次は……あ、筍がまだ出てますね。もうすぐ、食べられなくなるかも」
「筍……扱ったことないです」
「じゃあ、柔らかいのを選びましょう。小ぶりの方が扱いやすいんです」
志乃は、手際よく筍を見分け、ひとつを英敏に手渡した。ふいに指先が触れ合って、ほんの一瞬、ふたりとも黙る。
すぐに、英敏がそっと目を逸らした。
「この辺り、詳しいですね」
「母が料理好きで、小さい頃から一緒に買い物してたんです。魚の匂いとか、なんだか懐かしいです」
そう言った自分の声が、いつもより少しだけ高く、明るい気がした。
アメ横の喧騒から一本裏手に入った路地に、小さな甘味処がある。朱色ののれんに「豆だぬき」と筆文字。志乃は立ち止まって言った。
「ここ、昔ながらの味でおすすめです。買い物終わったら、ひと休みしましょうか」
「ええ。……ぜひ」
買い物袋は少しずつ重くなっていたけれど、ふたりの足取りはどこか軽かった。
――日常の延長にある、ほんの少しの非日常。
それが、志乃の心を静かに揺らしていた。
◇◇
朱色の暖簾をくぐると、小さな丸椅子と木のカウンター。年配の女性がひとりで切り盛りしているようで、志乃と英敏は窓際の席に並んで座った。
しばらくして運ばれてきた豆かんは、ガラスの器に寒天と黒豆、そして小さな赤えんどう豆が涼やかに揃っていた。添えられた黒蜜を英敏が慎重にかける。
「……こういうの、初めてです。豆かん」
「甘さ控えめで、後味がいいんです。昔ながらの味」
志乃はスプーンを手に取り、ひとくち口に運んだ。寒天のひんやりとした食感と、豆の優しい味が広がる。
英敏も一口食べて、小さくうなずいた。
「……なんというか、懐かしい味がしますね。食べたことないはずなのに」
「それ、わかります」
志乃は笑う。
「私、こういうのを母と一緒に食べて育ったんです。アメ横の帰りに、いつも寄るお店があって」
「きっと、そういう記憶が、体に残ってるんでしょうね。食べものって、不思議です」
英敏は静かにスプーンを置き、窓の外に目をやった。
「母も、こういう場所が好きでした。体が弱くて、あまり遠出はできなかったけど……近所の商店街の魚屋で、鮭の切り身を買うのが楽しみだったんです」
「……それ、すてきですね」
英敏は、うなずく。
「鮭が好きなんです、今でも。どこか、安心する味で」
志乃は、その言葉にふと頬を緩めた。
「今度、鮭の南蛮漬け、作ってあげますよ。野菜もたくさん入れて、さっぱり食べられます」
そう言いながら、自分の言葉に少し驚く。
――自然に「作ってあげる」と言えた。
それが、不思議なほど心に負担なくすとんと収まった。
「それは……楽しみです」
英敏は少しだけ目を細めて言った。
ガラスの器の底に残った黒蜜が、陽に透けてきらきら光る。忙しいアメ横の賑わいとは対照的に、店の中にはゆるやかな時間が流れていた。
志乃はそっと胸に手を当てる。
――こんなふうに、誰かと一緒に“買って、食べて、話す”だけの時間が、どうしてこんなにあたたかいんだろう。
それが、いまの自分には何より贅沢なことに思えた。
ツイードのジャケットに、今日はグリーンのセーター。いつもより少しだけ色合いが明るい。手にしたかごの中には、青梗菜と豚肉、そしてまだ何かを探しているような表情。
「こんにちは。今日も新しい挑戦ですか?」
志乃が声をかけると、英敏はほんの少し照れくさそうに笑った。
「ええ。青梗菜と豚肉で炒め物を作ろうと思って……あとは、何か副菜になるようなものがあればと」
「なるほど……それなら、もやしときゅうりで簡単なナムルが合うと思いますよ。お酢とごま油でさっと和えるだけで」
「ナムル……なるほど、また検索してみます」
そう言いながらも、英敏の視線はかごではなく志乃に向いていた。
「実は、来週の土曜日……朝にアメ横へ行ってみようかと考えてるんです。スーパーにはないような食材も見てみたくて」
「アメ横……いいですね。旬のものがいろいろ並びますよ」
志乃は微笑む。
「ええ。……もし、よろしければ、ご一緒にいかがですか。アメ横のこと、全然わからなくて」
英敏の声は、穏やかだけれど、いつになくまっすぐだった。
志乃の胸に、かすかに波紋が広がる。こうして誰かに“誘われる”ことが、どれほど久しぶりだろう。
「……いいんですか? 私なんかで」
「だから、お願いしたいんです。迷ってばかりなので」
その言い方が、少しだけ不器用で、でもどこか誠実で、志乃は自然と頷いていた。
「じゃあ、朝の九時。松坂屋の前で」
そう言った英敏の顔に、初めて見るような柔らかな笑みが浮かんだ。
――誰かと並んでアメ横を歩くなんて、想像もしてなかった。
でも、なんだか悪くない。そんな気がした。
◇◇
朝のアメ横は、想像以上に活気に満ちていた。
呼び込みの声、新鮮な魚の光る目、山盛りに積まれた果物。早朝にもかかわらず、買い物客が行き交い、店先で威勢のいい声が飛び交っている。
英敏は、目を丸くして立ち尽くしていた。
「すごいですね……圧倒されます」
彼は肩をすくめた。
「ふふ、慣れると楽しいですよ」
志乃はエコバッグを手に、自然と人波を避けながら歩き出した。
英敏が少し遅れて並ぶ。その距離が、どこかくすぐったい。
「まずは魚から。煮付け用なら、今日はカレイがいいですね。煮崩れしにくいし、身がやわらかい」
「なるほど……あ、これですね」
英敏が指差した先には、ぷっくりとしたカレイが並んでいた。志乃は近づいて、店主に声をかける。
「これ、二尾ください。煮付けにします」
「姉さん、味噌か醤油?」
「今日は醤油で。ちょっと濃いめに」
「いいねえ、男ウケする味だ」
店主の言葉に、志乃は「そういうのじゃないですよ」と笑って受け流す。けれど、英敏はなぜか少し照れたように咳払いした。
「次は……あ、筍がまだ出てますね。もうすぐ、食べられなくなるかも」
「筍……扱ったことないです」
「じゃあ、柔らかいのを選びましょう。小ぶりの方が扱いやすいんです」
志乃は、手際よく筍を見分け、ひとつを英敏に手渡した。ふいに指先が触れ合って、ほんの一瞬、ふたりとも黙る。
すぐに、英敏がそっと目を逸らした。
「この辺り、詳しいですね」
「母が料理好きで、小さい頃から一緒に買い物してたんです。魚の匂いとか、なんだか懐かしいです」
そう言った自分の声が、いつもより少しだけ高く、明るい気がした。
アメ横の喧騒から一本裏手に入った路地に、小さな甘味処がある。朱色ののれんに「豆だぬき」と筆文字。志乃は立ち止まって言った。
「ここ、昔ながらの味でおすすめです。買い物終わったら、ひと休みしましょうか」
「ええ。……ぜひ」
買い物袋は少しずつ重くなっていたけれど、ふたりの足取りはどこか軽かった。
――日常の延長にある、ほんの少しの非日常。
それが、志乃の心を静かに揺らしていた。
◇◇
朱色の暖簾をくぐると、小さな丸椅子と木のカウンター。年配の女性がひとりで切り盛りしているようで、志乃と英敏は窓際の席に並んで座った。
しばらくして運ばれてきた豆かんは、ガラスの器に寒天と黒豆、そして小さな赤えんどう豆が涼やかに揃っていた。添えられた黒蜜を英敏が慎重にかける。
「……こういうの、初めてです。豆かん」
「甘さ控えめで、後味がいいんです。昔ながらの味」
志乃はスプーンを手に取り、ひとくち口に運んだ。寒天のひんやりとした食感と、豆の優しい味が広がる。
英敏も一口食べて、小さくうなずいた。
「……なんというか、懐かしい味がしますね。食べたことないはずなのに」
「それ、わかります」
志乃は笑う。
「私、こういうのを母と一緒に食べて育ったんです。アメ横の帰りに、いつも寄るお店があって」
「きっと、そういう記憶が、体に残ってるんでしょうね。食べものって、不思議です」
英敏は静かにスプーンを置き、窓の外に目をやった。
「母も、こういう場所が好きでした。体が弱くて、あまり遠出はできなかったけど……近所の商店街の魚屋で、鮭の切り身を買うのが楽しみだったんです」
「……それ、すてきですね」
英敏は、うなずく。
「鮭が好きなんです、今でも。どこか、安心する味で」
志乃は、その言葉にふと頬を緩めた。
「今度、鮭の南蛮漬け、作ってあげますよ。野菜もたくさん入れて、さっぱり食べられます」
そう言いながら、自分の言葉に少し驚く。
――自然に「作ってあげる」と言えた。
それが、不思議なほど心に負担なくすとんと収まった。
「それは……楽しみです」
英敏は少しだけ目を細めて言った。
ガラスの器の底に残った黒蜜が、陽に透けてきらきら光る。忙しいアメ横の賑わいとは対照的に、店の中にはゆるやかな時間が流れていた。
志乃はそっと胸に手を当てる。
――こんなふうに、誰かと一緒に“買って、食べて、話す”だけの時間が、どうしてこんなにあたたかいんだろう。
それが、いまの自分には何より贅沢なことに思えた。